2014年7月28日月曜日

お詫び

半年ほど前からこのブログに登場していただいた皆さんの中にご迷惑がかかり、お名前をイニシャルに変えたり、投稿そのものをご本人のご希望により削除する件が増えています。

震災から3年以上が経ち、避難以上でいらした方々の何人かはいろいろな事情から帰国され、
また何人かの方々はバリにしっかり根を下ろし、元気に生活されています。

このブログも途中まで更新を重ねてきましたが、大変残念ながらここに登場していただくことでご迷惑がかかるとなるともう取材そのものが止まってしまったまま久しいのです。

どうか皆さん、暖かいご理解をいただけますように。

今も心休まるどころか、大変シビアな状況が続いています。

放射能問題に加え、日本政府がかじ取りをしている方向性自体子供たちに未来をどう導いたらいいのか分からなくなっています。
だからといって放射能問題が薄れているわけではなく、さまざまな問題が覆いかぶさっていることで関心が薄れているような気がしています。

今何をしたらいいのか、何ができるのかを私自身もう一度考え直したいと思います。

このブログもまた折を見て別の切り口で投稿していきたいと思います。




2013年4月27日土曜日

移住・疎開のきっかけづくりを考える


今回は、ツイッター上でバリへの疎開・保養を積極的に支援されている
romo -バリ島疎開応援団- #脱日本 @setrisnoさんにお話しを伺いました。

romoさんのプロフィールは、ご本人のブログによれば

「196x年式の日本人です。
浜松市生まれ、世田谷区および北茨城市育ち。
1993年ごろは西Jawa州Bandung市にいました。
2011年に東京の品川区からバリ島へ引っ越しました。

タイトルのLautanはIndonesia語で「大海原」って意味です。
ハンドルのromoはJawa語で「おもうさま=お父上」って意味です。」

会社員>会社代表>会社員>会社役員>現在はバリにて自営業。

ツイッターでは、おもに疎開・保養を考えている方へ向けて、インドネシアの一般情報から見えない世界の話まで(!)、多岐にわたる情報を発信中。

フォローされている方も多いかも?

お名前は伊東直(いとうなおし)さん、52歳。奥様はインドネシア人のイダ・ハリヤニさん。



で、romoさんって、どんな方なのでしょう?

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その1 疎開支援サイト


romoさんは、今野信之さんとともにこちらのサイトを運営されています。

バリ島疎開応援団 Escape to BALI ~放射能の心配のない南半球のバリ島へ疎開・保養に来ませんか~」http://www.bali-trip.com/guest_house.html

以前この「バリ日記」に登場していただいた今野信之さんとromoさんは、
お住まいが同じエリア、お子さんの学校が一緒、ということで昨年知り合われたそうです。

(今野さん掲載記事→ http://diarybali.blogspot.jp/2012_08_01_archive.html

写真は右がromoさんこと伊東さん、左が今野さん。


romoさんによれば、
「今野さんと出会ったことで、いろんなことが一変。私はそれまで原発事故の影響などあまり関心を持っていなかったんですが、……今野さんのお話を聞いて、これは是非一緒にやろうと思いました」、と。

サイトのTOPページにはこんな風に書かれています。




「かつて日系企業の保養所として使われていた建物を、オーナーであり日系二世の小野寺バスキ氏のご好意により 『バリ島疎開応援団』のゲスト&ケアハウスとして優先的に使用させて頂けるようになりました。

小野寺氏のお父様はインドネシアに残って独立戦争を戦った元日本軍人で、バスキ氏ご本人もお父様お母様と一緒にゲリラ戦の中、過酷な山の中で幼少時を過ごした経験をお持ちの方です。父上は現在、インドネシアを独立に導いた一人としてジャカルタ英雄墓地に眠っておられます。

今回、日本の現状含め、子供疎開移住支援の話を小野寺氏にさせて頂き、インドネシアを助けた日本人であるお父上同様、今度はインドネシア人として日本の未来である子供達を助けたいという想い、手助けになるのであれば是非協力したいとおっしゃって頂き実現しました。
場所は海まで 3.5km のヌサドゥアの丘の上 (海抜60m)、 静かな住宅地の中にあります。施設の真ん中にはプールがあり、プールを取り囲むように五つの部屋があります。各部屋からプールで遊んでいる子供達が見えます。談話室や海が見渡せるガゼボ、共有のキッチン、ダイニングもあります。

設備はすこし古いですが、どの部屋もインドネシア風のトイレではなくて、洋式トイレで、バスタブ付きの部屋もあり、お湯も出るので、インドネシア滞在が初めての日本人の方にも違和感なく使って頂けると思います。

私たちはここが、保養の方には安価な宿として、疎開・移住の方にはこちらでの生活を始めるにあたっての足がかりの場になってほしい考えております。

同じ問題を抱えて日本を脱出した方同士が、情報を共有しあい、協力し合って新しい生活を構築していくための足がかりの場になってほしい考えております。

私たちもできる範囲でお手伝いします。ここに滞在される方も、後からこられた方を手助けする、助け合いの連鎖が生まれることを願っています。私たちはバリ島の南部地区(空港より南、バドゥン半島 (ジンバラン・ヌサドゥア方面) に住む日本人で、バリ島に避難される方々をサポートしたいと思ってる者の集まりです。

ツイッターでひたすら疎開を呼びかけてきた nobuさん (@nobutomorino)を中心に、私たちができる範囲のお手伝いをさせて頂きます。

なにぶん素人の集まりですし、バリ島の在住暦が長いわけでもありません。でも、みんな”なにかせずにはいられない”と感じています。

地理的、時間的な問題から、私たちがお手伝いできるのは 「NusaDua ゲスト&ケアハウス」 または、その付近の宿にご滞在なさる方に限らせていただきます。」



「なにかにかせずにはいられない」という気持ち。

お節介になるかもしれないけれど、“今やるべき最優先の事”は、日本の、福島の子供たちを少しでも早く、少しでも長く海外に、という事のきっかけづくりではないかと。

これが私たち海外居住日本人の本音だと思います。


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その2 ケアハウスの運営



今野さんにお目にかかった半年前、こんなコメントがありました。

「バリへの第一歩で自分が『こんなものがあったらいいなぁ』と実感したものが、ケアハウス。海外自体がはじめての人や、移住先での不安を抱える方々が共同生活または短期宿泊できるホームステイ形式のケアハウスの計画もしています」

計画がすすんで、ケアハウス、ついに出来たのです。

先日、柚木ミサトさんとご一緒に見せていただきました。


お伺いしたのが夜だったので、ケアハウスの写真はすべてサイトから引用させていただいています。

敷地は、いわゆるリゾートホテルと比較すれば、限られたスペースを最大限生かした中庭式。中央のプールを囲むようにして5つの客室が。

部屋のスペースは1~2ヶ月の滞在には十分なゆとりがあると思います。共用のキッチンとダイニングがあるので自炊もできます。

もともと日本企業の保養所としてつくられたそうで、一角に共同の広々したリビングスペース、屋上にも景色を眺めながら談話室のように使えそうなバレがあります。


十数年前の建築とのことですが日本人にとってのファシリティは十分だし、滞在がほかのファミリーと重なれば情報交換はじめ日本ではなかなか人に言いにくかったこともお互いに相談しあえるかもしれません。

“自分だけが周りの中で意見が異なる”、と窮屈な思いで国内居住されている方にとって、同じ思いの人が集まれる場所での滞在は、具体的に移住することを決めるか否かだけではなくいろいろなヒントをもらえそうです。




サイトのTOPの文章にある「助け合いの連鎖」という言葉、大事なことだと思います。

今私たち日本人は、自分の直感的な思いや考えを引き出しにしまわないで、考えが近い同士が知り合って、どんどん意見交換したらいい、と。

話すだけで連帯感、安心感につながるかもしれない。

今まであまりにも多数決の世の中でしたからね、もう少し外側からものを見て、未来について考えてもいいのではないかと思います。

バリへ一旦出てみて、同じ考えの人同士でつながり、現地の人と知り合う事で、いろいろな気持ちの整理もできるのでは。

ケアハウスは各室間取りが違うので、詳しくはサイトを見てみてくださいね。


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その3 移住よりまず疎開を考えること


romoさんに伺うと、こんなご意見でした。

「最初に整理した方がいいのは、いきなり移住ということに立ち向かわないということ。これは相当にハードルが高いです」

移住と思うと、日本の住まいも仕事もすべてにピリオドを打って、ということになるので考えるだけでも大変そう。そこまでをいきなり考えるのではなく、観光ビザでまずは下見のつもりでバリへ来て見ませんか? という呼びかけをされているのがromoさんたち。

「1番目は、観光ビザ(バリ到着時に空港で取れるアライバルビザ)で最大60日まで滞在できることを利用する短期保養という考え方」

「2番目は、疎開

「3番目が移住です」

これ、しっかり覚えたいです。国内に住み続けることと海外に移転することの間に、方法があるということ。


「1番目を繰り返してもいいし。しかし、1番目が一番お金もかかります」

60日を越える場合はインドネシア国外へ一度家族全員が出る必要があります。一般的な例では、シンガポールへ日帰りで行くというもの。シンガポールから出国し、またインドネシアに入国することでまたアライバルビザを取得するという方法です。

「2番目の疎開ですが、この場合は家族全員ではなくて、たとえばお父さんが日本で仕事を続け、お母さんと子供たちだけが海外へ長期滞在」

日本からお父さんがお金を送ることで、現地ではお母さんは生活のために仕事をする必要がないので、ソーシャルビザ。最大6ヶ月滞在可能で、6ヶ月ごとにシンガポールなどインドネシア国外へ出る必要があります。

「3番目の移住は、就労ビザ(など)」

3番目の就労ビザは実はあまり簡単ではありません。インドネシアで仕事をして報酬を得られる外国人は、各企業で2~3人しか雇えない法律があるためです。それだけ特殊技能や経験を問われるわけです。

「仕事を現地採用というと、観光業かつ専門職が多い。日本で一般のサラリーマンの人にはなかなか難しいかと。たとえばシェフとか、ホテルサービス経験者なら就職先はある」

でもそれはかなり間口の狭い話しとなります。

「それ以外は、自分の得意分野での起業という方法でしょう。今、インドネシアは好景気。日本の高度成長期のような風が吹いています。(まだインドネシアにないものをつくれば)ビジネスチャンスでもある」

これまでバリへ移住されてきた方の何人かはすでに起業(外国人起業登録)されています。うち(アトリエマニス)も、10年来の現地法人から今年外国人企業に切り替えたことで日本人の方の採用が出来るようになりました。

「とにかく最大の目的は子供を少しでも長い時間こちらに来させられるように、ということです」

皆さん、一度視察を兼ねて、バカンスのつもりでバリへ来てみませんか?


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romoさんは、バリに限らずインドネシアについて広い知識を持っている方。

1990年から1995年まで西ジャワでの仕事があり、日本とジャワ島を行ったり来たりする生活をされていて、その後日本でサラリーマン生活。2002年にジャワ人の奥さんと結婚。

しかし、老後のことを考えると国民年金の度重なる変更(支払開始年齢)に、このまま日本で暮らしていく意味を考え直すことに。

2009年、奥さんの希望でバリのヌサドゥア(奥さんが最初にお勤めだったホテルがヌサドゥアだったとのことで)に土地を購入。

2010年には移住を決意して、調査を開始。2011年の3月はじめにはまず奥さんがバリへ渡り、家を建てる準備に取り掛かったそう。震災のわずか1週間ほど前のことです。

震災当日は、東京で暮らしていたromoさんと息子さん。小学生の息子さんは、「おじいちゃんが家にいるから」っと帰宅したのですが、電車が動かないのでおじいちゃんは家に来れず。鍵も持っていないので自宅の前で途方にくれていたそうです。幸い近所の方が息子さんを預かってくれたのですが、電話も通じない中、romoさんが横浜にある会社から家に戻れたのは深夜だったそうです。

翌日の12日、今度は、奥さんのお母様(インドネシアの)が亡くなったという知らせが。

すぐに航空券を手配して出国をしたのは17日。

図らずも震災、放射能避難とはまったく違う理由でしたが、インドネシアへ移住することと震災直後にインドネシアへ急に渡ることが重なったのでした。

こんな偶然も起きるのですね。導かれている、というか。

しかし、きっかけがどうであれ、romoさんたちが今誰よりもいっしょうけんめいに「疎開・保養」についてどんなことができるか、どういうお手伝いが一番ふさわしいか、考えている。

romoさんと今野さんが二人とも、震災後に移住されているという、立場的に当事者でもあることも心強いことだと思います。(私たちのような元からの移住者だと考え至らない部分もあると思うので。)

「バリが好きで来た、というのともまた違ったのだけど。今はいろいろな面で来てよかったと本当に思いますよ。子供の学校はインターナショナル、半年もたたないうちに友達作って外国語でしゃべってた。インドネシア語より英語の方が先に上達していますよ」

「子供にとっては、規制のない自然の中で自由に遊ぶことが出来るわけで、日本にはないすばらしさがあると思いますよ」

「サイトは立ち上がりからかれこれ5ヶ月。現在、サイトからのお問い合わせは週1、2件くらいです。でも、不思議なくらい福島の方からのお問い合わせって皆無なんです」

「多くは震災後関東から関西方面へ移転したけれど今度は大阪ががれき焼却を始めたことをきっかけに、海外へ目を向けている、という方々」

「活動を初めてから、私たちのところを最初の拠点にして(当初は自宅を利用)移住された方も一組います」


「長期滞在、疎開をするのであれば言葉の面を含め、やはり私たちの協力は最初の足がかり、ゆくゆくは自立していくことを目標にして欲しい。私たちはお金をいただいてしている協力ではない。でも、お金をいただいて出来ることでもないです」(バリにはお仕事で疎開・移住のお世話をしている会社もあります。)

「今、原発のことでボロが出てきちゃってる。年金問題と同じで、世の中の根っこにあったもの。本当にうそつきだったんだなぁ、って」

「これからもっと日本から長期滞在~移住につながるような具体的なプランを立てられたらいいな、と思っています」

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いかがでしたか?

romoさんへの質問、お問い合わせは冒頭のサイト内から直接できます。サイトの左袖にビザ情報などの一般情報も出ていますので、是非活用してください。

では、また次回!






 

2013年3月18日月曜日

柚木ミサトさんに海外移住について聞いてみた

先日、バリにいらしていたイラストレーターの柚木ミサトさん。

実は私、初めてお目にかかりました。

前書きが少々長くなりますが、以下。

ツイッター(@pelukissを通してお知り合いになってから、
いろいろな意味でとても考えの深い方であり、
いつも絶対に前向きである姿勢に刺激され続けてきました。

今回バリにいらっしゃるに当たり震災から2年を迎える事もあって
UBUDでトークライブをしていただきました。

この催しではトークのほかに、
日本で劇場公開中の新作映画「おだやかな日常」のフィルムを上映。
恐らく海外でははじめての上映だったこのフィルム、
ミサトさんが自らが交渉し、上映許可を取ってくださいました。

バリ在住者の多くは限られた情報でしか震災の傷跡を知りません。
放射能汚染が目に見えないものであるように、
原発事故は人々の関係性を目に見えないところであっち側とこっち側に分け隔てました。
突然の出来事に人々がどれだけ翻弄されたか。
トーク会&上映後の感想はさまざまでしたが、
在住者の私たちにはとてもいい参考になったと思います。





柚木ミサトさんは震災後、「あかいつぶつぶの絵」のシリーズを描きはじめ、
ツイッター、フェイスブックなどを通してたいへん話題になりました。

抗議行動のデモのプラカード、社会を変えようと訴えかける市民団体のチラシ。
サイトからフリーダウンロードできるこの絵は、日本中の様々なシーンで活用されています。

以下はミサトさん自身の資料から。

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【あかいつぶつぶの絵】について


日本の子どもたちを放射能から守るためにこの絵を描き始めました。
この状況に気づいて、知って、学び考えて、自分の心で選択しよう。

今、日本に起きている問題は、世界中にある様々な問題と同じで
私たちは、自分たちが作り上げてしまった
「おかしな世の中」と戦っているのだ思う。

原発問題や、震災からの復興を考えるのも、そのなかのひとつです。
この世界を作ってきたのは私たちです。

ですから、私たちはこの間違った世界を変える力をすでにもっています。
私は、希望や夢、楽しみが、はりきるエネルギーを生み出すと信じている。

今まで見たこともない、あたらしい世界を心に描いて選んでいきたい。
そういうものこそ継続するし、生きるという事だと強く思います。

「すべての人が、すべてをのり越えて、子どもたちを守られるように」

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著書について


ミサトさんは昨年、「放射線になんか、まけないぞ!」という本の制作にも携わりました。

子供でも理解しやすいように配慮され、放射線について正しく知識を持てるようにと考えられた
イラストブックです。


ミサトさんのブログによれば、

「福島県郡山市の坂内智之さん(小学校の先生)といっしょに作った放射線学習テキストがはじまり。原発事故のすぐ後、4月に坂内先生が、新学期に学校で配るために作ろうとしていたのをツイッターで知ってお手伝いしました。
坂内先生の行動は早かったよ!…
震災前ではありえないスピーディーな展開。これでできたのが、『みんなで防ごう放射線』その後、内部被曝に踏み込んだテキストをOH事務所の大塚さん(編集ライターさん)に書いてもらって、先生に監修してもらって家での注意を書いた『ほうしゃのうをやっつけろ!大作戦』を作ったんだ。
大塚さんは私たちのやり取りを見てて手伝うよって声をかけてくれてたから二つ目のテキスト作りをお願いしたの。それを大塚さんが太郎次郎エディタス社さんに繋いでくれて、今回の出版になった。
監修は、坂内先生のリクエストで木村真三さんに白羽の矢が!
とにかく子どもたちのためにと、出来るか出来ないかなんて考えないで提案したことを出来るようにカタチにした本なんだ。」

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イラストレーターというお仕事を通して、
今の政治がなかなかたどり着けない大きな問題点に
あくまでも前向きなエネルギーを注ぎながら切り込んでいくミサトさん。
 
著書はどちらかといえば国内に住み続けながら工夫をしていくという角度のものですが、
そのミサトさんに、このブログのために「海外移住」というテーマについてお話しを伺いました。

場所は帰国の際の空港行き車中でした。


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「海外移住」について


Q 移住について、ミサトさんのお考えを聞かせてください。

A 移住した方がいいかどうかはその人にとってどういう背景か、ということによりますよね。
これは外からアドバイスを求めるより、やはり自分で決めなくてはならない事だと思うんです。

移住に限らず、放射線から身を守ることはアタマがカタいとやりにくいことだと私は思う。

何のために移住するか、放射線を避けるため? いや、本当はそれが最終的帰着点ではなくて、移住した先でそれまでよりもっと幸せに生きるため。

…そう考えていればハッピーな移住につながるかと。

移住というのは、人生を幸せに生きるための付録のようなものです。

幸せに生きるついでに移住するような感じ、その位のエネルギーのかけ方だったら。

一生そこに住もうと思わなくても、とりあえず2年とか。

2年くらい経てば日本でも動きが出てくるかもしれないし、期間限定の(移住の)考え方にしておけばフットワークも軽くなるんじゃないかな。

先程も言ったように、移住の目的は何? →放射線を避けること。 放射線を避ける目的は何? →幸せに暮らすこと、…という点を忘れないでいたらいいと思う。

Q 今回バリですでに移住してきている人とも会われましたよね。何か思ったこと、ありますか?

A それ程深く話しをしていないし、それぞれ状況も違うし、それぞれだなぁ、と思うんだけれど。

Q ミサトさんはお仕事柄、放射線の問題点については詳しいお一人だと思うのだけど、例えば、今、各地で問題になっている瓦礫の焼却についてはどう思われますか? 
福島からは遠いからと安心していた地域の人たちが今移住について真剣に考えだしているように思うのですが?

A やはり、その人の生き方の問題かなぁ。
震災後、世の中にはいろんなリスクが増えているけれど、瓦礫焼却からの放射線がどれだけ(人体などに)影響するか。全く無いわけではないと思うけれど、
薄い放射線よりもアスベストなど他の化学物質が燃やされることの方が気になるし
あと、どちらかというと、
わざわざ瓦礫を遠いところまで運んで焼却するような経済システムの国だという事の方が何倍も怖い気がします。
リスクはリスクだから。それをきっかけに日本を脱出、というシナリオはアリだと思う。

ただ、瓦礫の焼却によって降り積もる放射線の影響だけを憂慮する移住というのだと、移った先でのリスクとのバランスが良くないかもしれないです。

Q 12月の選挙の結果なども含めると、日本の流れにこの先希望が持てるかどうかと心配している方は多いですよね。

A 大阪、九州の瓦礫焼却の放射線の影響だけでは、私だったら移住しないかもしれませんが、今の日本を相対的に見たら。
もしまたもう一つの原発が爆発事故を起こしたら。
子供たちが通っている学校給食を仕入れている食品流通は、それでもやはり変わらないかもしれないし。
…そうした理由まで含めたら、移住というのは十分に考えられますよね。
とにかく総合的に見ておかないと、移住先で(その他含め全体的な)「リスク」が下がったかどうか、分からなくなるかもしれません。


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海外移住を「支援する」ことについて


Q バリから日本を見ている私たちの中には、もっと(たくさんの人が日本から)こっちに来たらいいんじゃないかって思っている人も多いんですが。

A 相対的に見たら(日本に居続けることは)やはり危ないと思う。その中であまり多くの人が動いていないのはもどかしい感じがするの?

Q もどかしさもあるかもしれないけど、外側から見てやはりかなり危険度が高まっていると思うのがまず一つ。あと、いいことしたさで、自分でも何かできないかって思うところがもう一つ。
でも、移住したいと考えている人が被災地じゃないところの人が多いのが現実で、思い描くイメージとあまりピッタリと合わない気もしています。

A もう2年経ってるでしょ。
もし私がバリにいたらと思うと、広報の仕方を考えたいな。
もっとオープンに一般的にするものと、もっとツボを押さえてピンポイントにするものと。
そろそろ、人の顔が見えていなくてはならないと思う。
そこに住む人がどういう人で、子供は何人で何歳で、経済的にはどんなで、将来の考え方はどうであるかなどなど。そういうことまで掘り下げて一緒にバリでの生活がいいかどうか考えて提案していくような。今はもうそういう段階だと思う。

今はそれ全体がチャンプルになっちゃってるかもね。ちょっとつまみたいだけの人にすごく深押しになっちゃったり、バリに合わない人にも押し付けちゃうような部分もあるのかも。

Q お節介をする側も、最終的帰着点をどうしたいのか、どうあるべきかが漠然としている部分があるかもしれないね。

A 例えば、お母さん目線での暮らしのブログとか。意外とそういうのがない気がする。移住を考える上でリアリティっていう部分(を参考にすること)は結構あると思う。写真が多くて楽しく読めるようなブログとか。そういうものが意外と遠回りのようで結構近いかもしれないね。バリにまだ来たことがない人に来てもらうための効果は、そういうところにもあるかも。

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ミサトさんのご意見、いかがでしたか?

2年が経ち、これからどこでどう生きるかという問いかけは、ますます色濃くなってきているように思います。

皆さんからのご意見、コメントにお寄せください。













2013年2月3日日曜日

双葉からの避難



先日、UBUDの日本食レストラン「影武者」の佐藤由美さんから急なお知らせがありました。
「双葉町から避難で現在埼玉在住の方が今バリにいらっしゃっています。
皆さんでお話しを聞きませんか?」
メールのあったその日の晩、数名が集まりました。
お話しは、 富澤俊明さん(74)、千里さん(70)夫妻。
参加は、
古谷悟さん(以下Sさん)、藤川修さん(Fさん)、佐藤由美さん(Yさん)、私でした。
たまたまインドネシアの祝日の晩であり、
富澤さん夫妻はその翌朝帰国されるという事情もあり。
それで、本当は参加したかったけれど来られなかった方々への報告に、と
このブログにアップさせていただくことにしました。
でも、個人的にもこのお話しを伺えてヨカッたと思います。
なぜならバリには実際、被災地からの移住の方は割合に少ないのが現状です。
あれからもうじき2年、どう捉えたらよいのだろう、これからどう考えていったらいいんだろう、と
思っていたところだったから。
富澤さん夫妻のお話しは、とっても前向きでステキなお話しなのでした。
心から感謝です。

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富澤さん夫妻は福島第一原発がある双葉町の、
原発からわずか3キロのところにお住まいでした。
結婚後、ご主人の俊明さんのご実家であるこちらに暮らし始めたそうですが、
福一はその頃(昭和38年頃)に着工されたそうです。


「私たちのところは日本チベットと言われるくらいのところですからね、
結局、安全だからといいつつそういうところに(原発を)つくったんですよねぇ」
現在は娘さんのいる埼玉県吉川の借家住まい。
312日、震災翌日の朝、原発に勤めている町の知り合いが携帯電話で情報を流しました。
危ないからすぐ逃げろ、と。一緒に暮らしていた息子からも(職場から)すぐに電話があり、
今から15分以内に出発するから支度しておくように、と」
3キロといえば、爆発物の瓦礫が直接落下する範囲です。
危ない、というのはもちろんメルトダウンのことでした。
「私たち家族は2台の車でまる二日寝ないであちこち逃げ回りました。
眠気と疲れで運転が危うかったのをよく覚えています。
最後の方は、こう、ジグザグにね、本当に無茶苦茶な運転で。
何のために逃げ回っているのだろうって思いながら。
あとはもう何だか頭がおかしくなりそうでした。その後の記憶は今も朧気です。
たまたまうちの車はガソリンをあまり消費しないタイプの車だったからよかったけれど、
ガソリンは買えないし渋滞するしで本当に恐ろしかった。
帰ってからそのストレスで歯がボロボロと欠けました」
「双葉町の人たちはその第一報で最初の水素爆発(一号機)の前に避難出来た人が
多かったです。でも、ヘリで救助された人もいたし、1ヶ月間知らずに居留まった人も
いましてね。隣の飯館村の人は事前に知らされなかった人が多かったようにも思います。
飯館には風向きでいっぱい(放射性物質が)飛んでいったそうで。
そう考えると自分たちは運がよかった、って思いましたね」
富澤俊明さんは双葉町に生まれ育ちました。
結婚後戻った故郷で奥さんの千里さんとともに電気工事、土木工事の自営業を。
会社は高度成長期にウナギ登りの業績を上げたそうです。
定年前後からは何か地元にお役に立てばと、もうかれこれ15年以上町会議員をしていました。
原発が立地する町ということで、支給されていた補助金と自費とで
アメリカ、フランスなどの原発を視察してまわったこともあるそうです
「それで大まかなメカニズムは知っていたんです。どうなったらメルトダウンするか、とか。
津波が来た時、あ、これはメルトダウンするな、とすぐに思いましたよ。
とにかく200キロは逃げないと、ってね。まぁ、そういうわけで逃げ足は早かったんですけどね()
30年以上経つ古い炉は危ないので新しくして欲しい、など、
これまでにも経産省にはいろいろ陳情も出しました。でも、官僚ってダメですね、
日本の場合一番責任感がないのが官僚だなぁ、といつも思わされましたね。
で、この前選挙ありましたよね、で、今度はまた自民党かぁ。
うん、このままいくと日本はギリシャになるんでねか()
「そういう人達が日本の政治と行政をやっている。情けないです、本当に……」
「……正直言って(双葉町には)もう帰れないと思っています」
「こうなったらもう、原発がない国を旅してまわり、
子供たち孫たちがどう暮らしていったらいいかを考えることが、一番前向きなんですよね。
バリへは友達の話しを聞いて是非来てみたいと思いましてね。
海外へも目を向けていくことがこれからの日本人には必要です。
テレビ見てると原発事故のことなんかもう何ともないような事になってますけどね」
「海外を旅するようになって以来、
日本にいる日本人よりずっと日本のことに関心が高いことが分かってきています」
Sさん「 日本にいるとこういう話しがなかなかし辛いと聞きます。でもバリだとごく普通に
原発の話しも政治の話しもできるってことに皆さんビックリされていて、
ありがたいって言われます」
  「……私たちには(原発事故で起きた事を)伝えることしかできないです。
  いかに日本を愛しているか、ってことをせめてこうして海外にいる皆さんと語り合えたら、
  ってね」
  「忘れていく、風化していくことが一番怖い。もうあそこは大丈夫だからって言われることが」
  「それがまたね、(避難生活から被災地へ)帰りたいって人も多いんですよ。
  日本人らしいなぁ、って思うけども」
  「帰っても大丈夫なはずがないんですけどね。何て言うか、復興という言葉がねぇ。
  テレビ見てるともうあそこは何ともないってことになっててねぇ」
Sさん「そういえば、戻りたいという人が戻って、ヨカッタ、みたいなテレビ番組もありましたねぇ」
  「私らは自営業の傍らでダチョウの飼育をしていたんですが、
  それそのまま置いてきてるもんだから、餌をやりに月に2回くらい行くんですよ、
  立ち入り禁止区域内にね、通行証みたいなのがあってそれ見せればスッと入れる。
  100円ショップに売ってるようなビニールのカッパ着て、せいぜい23時間以内。
  作業員の着てる防護服なんて立派なものじゃないですよ、それ脱いでそのまま捨てて来る」
  「どうだか分かりませんが、大人だと3ヶ月くらいで(放射能汚染が)排出されるっていうから」
Sさん「事業補償はどうなってるんですか?」
  「精神的補償というのはありましてね、各個人に10万円です。
 
  その他は細かい細かい書類が必要で、自営業者にはとても叶いません。
  農協のような団体は優遇されていて早速補償されている。
  これはどうも弁護士さんのチカラでね、東電についてるクラスの弁護士さんと
  我々の味方になってくれる弁護士さんとじゃ、全く比にならないんですよ」
  「なぜこんな目に会っている我々が何の補償ももらえないんだろうか? って。
  最初まったく納得いかなかったです。
  ……本当は商工会議所がやらなければいけないことだと思うんですけどね、
  やっぱりチカラがないんですよね」
  「45年間やってきた会社でやっと減価償却が終わった重機なんかが全部ダメになりました。
  除染もね、いくらやっても基準値下がらないですよ
富澤さん夫妻は紆余曲折の末、大切なのは今ここにある状況ではなく、
子供たち、孫たちの未来のためにできることだと思い至ったそうです
それは、海外へ目を向けることだと。
Sさん「海外はほかにどちらへ行かれたんですか?」
  「一番最初はオーストラリアでした。出会った皆さんにとても心配してもらって」
  「こちら(影武者)に来た時もね、メニューの1ページ目に書かれていたことが
  目に留まってお声をかけさせてもらいました。
  でも、お陰で今日は皆さんと会えて、こうしてお話しできて。ほんとうに最高の晩です」
Yさん「あ、そのメニューのは、本当はかなり迷いながら書いてます。
お客さまの中には〝食べて応援〟と考える人もいますでしょ。
そういう方にとっては不愉快になるかも、っていう気持ちもありました。
でもよくよく考えて、やっぱり私は安全な食べ物しか出したくない、って。
だからあえて書くことにしました」 →★
  「いやいや、それ、とっても大事なことですよ、本当に。
  ましてや子供たちのためを思ったら全く同感です。
  こうした話をね、旅した我々が日本へ持ち帰ることが大事だと思ってます」
  「何か、人の心の慰めになる様なことができたら、と思うんですよね。
  世界は皆一緒ですからね、これはもう地球レベルの問題ですからからね」
Sさん「これ他力本願なことかもしれませんが、
一人でも多くの人がそういう理解ができたらいいですよね」
Yさん「私は震災後にすっかり元気がなくて毎日メソメソしていたんですが、
被災地のしかも原発からわずか3キロのところから今日ここへ来てくださって、
こんなに前向きでいらして、却って励まされてしまいました」
  「こんな風にお話しができて本当によかったです。これからは、
  できたらバリとオーストラリアと、あとマレーシアに数ヶ月ずつ暮らすようなことを
  したいですねぇ。子供たち、孫たちにとってこれからの時代は外国語も必要だし、
  是非海外へ出したいと思うんですよ」

 
  「そういう夢を持ってこれからもやっていきますよ」
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富澤さん、お話しをありがとうございました。
海外へ向かう事を大いに楽しみにしつつ、夢を持って、というお言葉が心に残りました。
日本はもうダメだから、という消去法だけで海外へ向かうのは苦難かも知れませんが、
グローバルな体験の為にも、と心得れば同じ方向でも移住は夢のように明るくなるのですね。
福一から3キロ。
事業も財産も失って、それでも夢は捨てません。
富澤さん夫妻の勇気に、 未来を感じます。

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    ちなみに影武者のメニューの1ページ目にあるごあいさつ文はこちらです。
お客様各位
平素よりご愛顧いただきまして誠にありがとうございます。
たいへん残念なことですが、当店はこの度の東京電力・福島原発の事故の影響を危惧し、
酒類(西日本)以外の日本原産の食材・調味料等を使用しないことに決めました。
食品の安全基準・検査など日本政府の対応には信頼性がまったくないと判断したからです。
この苦渋の決断は、「自分の家族のためにつくるお料理と同様、お客様へのお料理も安全で美味しく、愛をこめて。」という私個人の信念に基づいています。
皆様のご理解をいただきますよう、心からお願い申し上げます。
この悲しく、深刻な事態を憂える気持ちに賛同していただける方は、壁面に設置してある
Sayonara! Nukes日本の原発を停めよう」署名運動にぜひご協力くださいませ。
どうかよろしくお願いいたします。                                               
ご参考までに、現在使用している食品の原産地は、メニューの最後のページに記してあります。それ以外でご質問がある方は、 yumi@dapurbali.com までどうぞ。            店主