2012年2月25日土曜日

和歌山からの移住

藤川修さんは昨年5月からバリへ移住されています。

奥様の直子さんと現在12歳と1歳になるお子さんたち、一家4人。

「ナチュラル虫よけリキッド 」という商品をバリ島から輸入販売するなど、自営でのお仕事を通して7年前にはじめてバリへ。今回の移住は3回目のバリ(直子さんは5回目)で、輸入業をしていたといっても訪れた回数は少ないのです。

「 7年前。僕らはその頃から日本で原発事故は必ず起こると思っていたので、バリでは土地も探していました。」



1 事故前から決めていた海外移住


99年に結婚された時には既に直子さんと「もし原発事故が起きたらすぐに海外へ移住する」と夫婦で決めていたとか。

「 それで、予定通りといいますか、バリへ来たんです」

和歌山県で暮らしていた一家は、家の玄関に日本の原発所在地の地図を貼っていたほど。真剣でした。

「福島からは600キロも離れているから大丈夫、というのが周囲の認識でしたが、僕らはたった600キロしか離れていない、と思っていました。ガイガーカウンターで線量を測ることもしませんでした。なぜなら、線量が高いと分かった時には遅いと思っていたからです

「3月11日、東北地方で大地震が起きたと知ってすぐにツイッターで情報を探しました。テレビで津波の映像を見る事すらしませんでした。地震、津波の被害よりも原発の事故が起きていないかどうかを少しでも早く知りたかった」

皮肉にも、事故は起きていました。

2日後、3月13日の深夜2時。「これは日本はもうすっかりダメになった(原発事故の規模からして)」と察知。積めるだけ荷物を車に積んで、鹿児島へ。安い温泉宿に落ち着いて3週間過ごす。

その後和歌山へ戻ってお子さんのパスポート準備、後、一月足らずでバリへ。 和歌山のお家は親戚の方にカギを預け避難者の方がいつでも使えるように、と残されて来たそうです。(現在はお姉さんが住んでいるそうです。)

藤川さんがここまで迅速な行動を迷わず取って、事故からたった2ヶ月のうちに暮らしの一切をバリへ移されたきっかけは何だったのでしょう。ましてや事故前から原発事故の危機を考えもしもの事をしっかり決めていた理由は。

池澤夏樹の『楽しい終末』という本を1993年に読んだことがきっかけ。その冒頭、1、2章に書かれていた事を読んで、原発ってこんなに危ういものなんだと。放射能で自分たちの命が脅かされるなんて絶対に嫌だ、と思ったんです。もちろん普通の生活にも放射能はある。でも、自然界のそれと原発やレントゲンなどの人工的なものとは種類とリスクが違うんです」



藤川さんは、独自に様々な勉強を重ねて和歌山では原発事故のリスクと放射能汚染についての講座を開いていたほどでした。その関連で京都大学の今中哲二教授にも会い、チェルノブイリでの影響について報告された本をもらった。

その本(小冊子)からも大きな影響を受けた。
※「チェルノブイリ」を見つめなおす-20年後のメッセージ 今中哲二・原子力資料情報室 編著 (2006年)



2 京大の小出裕章氏からのメッセージ


「小出裕章先生にもその頃、スモールミーティングという非公開な話し合いの場で会いました。僕の活動を、是非続けてください、と大いに励ましてくれました」

「小出先生は、原発は海温め装置だとか、何千億円もかけて原発は安全なんだと一般市民にプロパガンダをすすめていることを当時から強く批判されていましたね。そして、それが全くの間違いであるのに対し、気がついて批判をする人がどれだけ少ない事か。大きなものにはきっと飲み込まれてしまうだろう、それでも僕たちは続けていくしかないんです、っておっしゃった」

「マハトマ・ガンジーも似たような事を言っていますね。 自分がする事によって世の中が変わるかどうかは分からない、でも続けるしかないっていう名言があります」
“大事なのは、行動の結果よりも、行動そのものである。正しいことをしなさい。結果が出るには、あなたの力では足りないかもしれないし、それはあなたの生きている間ではないかもしれない。だからと言って正しい行いをやめてはいけません。あなたの行動によってどんな結果があったかなど、永遠に分からないかもしれません。それでも、何もしなければ、何も産まれないのです。”- マハトマ・ガンジー

藤川さんが小出氏に会ったのは福島第一原発事故のわずか7ヶ月前だったそうです。驚きです。藤川さんはまるで預言者のような、何かご本人のなかでしっかりと認知というか確信されている。私たちにはちょっと真似のできない判断力かもしれません。しかし、見習わなければならない点がたくさんあるのではないかと思います。

「僕は小出先生のような方から比べたら100分の1も影響力がないかもしれないけれど、僕が行動する事で周りの誰かに何かを気づいてもらえるとしたら本当に嬉しい。だから放射能について知りたい人がいたら僕はバリでもいつでもしゃべれる資料をたくさん用意しています」 (バリで既に二回、放射能の講座を開催されています。)



3 徹底的に「日本食品を食べない」事


日本から訪ねてきた知り合いからもらうお土産のお菓子、食品も一切食べない。

おせんべい一枚でも子供にはダメなんだと。

私は実はその辺りの判断が甘くて、これまで頂き物くらいは普通に食べさせていたけれど、それもダメなんですね?

「ダメですね。子供の場合、大人の数千倍から数万倍内部被曝への影響がある。何がなんでも気をつけたいと僕は思ってます」

産地がどこかと問う前に日本からの食べ物は一切ダメと断言する藤川さん。なぜなら、その影響が実際に分かるのは周知の通り5年後、10年後。藤川さんにおいては、安全かどうか分からないものを子供に食べさせる事は一切タブーなのです。チェルノブイリの報告を見れば納得できます。



「チェルノでも事故当時すっごく食品に気をつけていたお母さんたちが緩んだのは1年後、2年後です。つまり、暫くしても何も変わらないから緊張感が溶けてしまう。どんなに緊張していてもそうなってしまうのが自然。結構難しい事です、実際」

震災から間もなく1年。

私たち皆それなりに忘れて緩む頃。

その時が危ないんだと藤川さんは言うのです。

「バリへ来て良かった、と思っています。日本のような便利な暮らしができない事と子供たちの将来が安全かどうかは比較することはできない」


4 サラリーマンを卒業することから


藤川さんは東京出身。

38歳まで東京、その後親戚のいる和歌山へ引っ越して5年だったそうです。

もともとはサラリーマン。

前出の池澤夏樹さんの本に触発されたことと、ほぼすべての企業は環境破壊に繋がっていると気づいたことでサラリーマンを辞める決心をされたそうです。

「最初はHewlett Packardの一次代理店で営業をしてました。成績もよくてHP社長から表彰されたりして、それなりに順調でした。でも、とにかく抜け出そうと。それからも、やっぱりお金が必要だといくつかの外資系(米国、ドイツ)に勤めて辞めてを繰り返し、ようやく自営の仕事に。東京(西荻窪)にて顧客が増え収入が安定したところで一切をまた振り出しに戻す様にして和歌山へ移転しました」

「僕自身、収入的に成り立つかどうかという不安は常にありません。今、バリでは殆ど仕事をしていませんが、今後起業して法律的に認められた上で和歌山でやっていたのと同じような自営の仕事を継続しようと思っています」



藤川さんは、インドネシア政府が発給するビザでここに居住させてもらえる事をとても感謝していると言う。

和歌山では比較的大きな一軒家に住んでいたが、今はUBUD近くの村にある小さな借家。ふた部屋分を借りて一部屋をキッチンに改造、もう一部屋が家族4人の寝室。前の生活と比べたら何て狭いところにいるんだろう、と笑っていましたが、都会のマンション暮らしと比べたら周囲がのんびりしていてなかなか?

ちなみにこちらの家賃はキッチン改造の費用込みで年3500万ルピア約30万円弱。

ビザは最初は観光ビザ。その後ソーシャルビザに切り替えていますが、それでも期限が切れる前には一旦インドネシア国外へ出なければなりません。 藤川さんご本人のみ現在マルチプルビジネスビザを取得。しかし一家全員が同じビザで安定できるようになるためにも、起業登録をする予定だそうです。

お金が足りるかどうかより、自分たちの命が大事。常にそうしてやってきました。それと、雇われて仕事をする事はバリでもNOなんです。やろうと思えばできるけど、自分の大切な時間を売って仕事をするのは嫌だなって。僕たちの大切な人生だから。好きな事をして収入を得たいと思うんです」



人それぞれ生き方は違うと思うけれど、藤川さんの場合少なくとも周りがどうだから、という事からは一切かけ離れている印象があります。それを変わり者と思えばそれまでだけど、今や時代は変わりました。

自分たちの命は自分たちで守る。

もはやサバイバルの時代に突入しているのです。

周りの目を気にする事なく自分が直感する事を信じて行動するのはとても大事なポイントだと思います。


5 バリ以外選択肢も常に考えて


「英語版ウェザーニュースを見ると、 北半球と南半球の空気は比較的混ざりにくいという事が分かります。バリへ移住してきたのはその事も大きな決め手。オーストラリアやニュージーランドは物価も高く、調べると一家全員移住にはビザが難しいと思いました。」

「あと、考えたのは南米です。もしも今僕が原発反対派でそういう活動をしていることがインドネシア政府の目に留まって国外へ追われるようなことになったら、次に行くのは南米だと思っています」

長男のゆうや君は、こんなお父さんの姿を見習って日本にいる時からインドネシア語を、今はスペイン語を勉強しはじめているそうです。

「僕がこんな変わった父親だから。毎日のように怖い話しを子供に聞かせて危機感があり過ぎたと思って。それはかわいそうな事です、確かに。妻からも時々叱られてます(笑)。でも、もしも僕が交通事故とか何かのトラブルに遭って突然いなくなったとしても大丈夫なように、という気持ちもあるんです。たとえ12歳でも世界中で一番まずい問題についてちゃんと知っていてもらった方がいいと」

藤川さんのお話しは、実は現在の金融危機にまで及んでいます。

世界経済はこのままいけば比較的近いうちにショートする。

そうなれば、どんなつつましい暮らしをしていても影響受ける。

「そういう事態になったら、バリの昔ながら物々交換が成り立つような田舎の村へ移転しますね」

自給生活が成り立つところ。バリはそういう視点では今もとてもしっかりとしたコミュニティが残っています。

さて、皆さんはどのように感じられましたか?

藤川さんの危機管理。とてもシビアです。しかしこれを大袈裟とは言えなくなってきているのも確か。時代はすっかり様変わりしています。それを「もうどうせ遅い」とか、「どっちみちダメだから」とは決して思いたくないものです。

藤川さんの言葉の中にこんなものがありました。

「どんなことがあっても生きていられたらいいです」

シビアな人ほど前向きなんだと思いました。


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藤川さん、今回は貴重なお話しを本当にありがとうございました。

なお、藤川さんのブログ(日記)はこちらです。
移住された当初から現在までの日々がつぶさに語られています。
是非見てみてください。

『バリ島日記5 』
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2012年2月8日水曜日