2012年10月1日月曜日

東北からの移住


 

 
 

 木村理恵さん(42)と渡邉仁さん(45)は、今年4月からバリへ移住。

 同郷の友人の誘いで2月に理恵さんが下見に来たのが初めてのバリ。仁さんにおいては全く初めての地での生活がはじまっています。

 ふたりが結婚を決めたのは昨年暮で、宮城県気仙沼市の理恵さんの実家へ仁さんが挨拶へ行ったのは昨年3月6日のことでした。

「理恵のお父さんに会ったのはそれが最初で最後でした」と、仁さん。お父さんは津波の犠牲者になられたのです。

 
 

1 お母さんが見つかった!

 


理恵さんは当時山形と宮城の県境にある近江山脈のしっぽの辺り、大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ)という里山で、オーガニックのお米を作るNPOで働いていました。
 
震災の日から4日後。実家の安否を確認に行きたいこと、しばらく連絡が取れなくなることを、職場の上司に伝えに行きました。車で2時間半の距離。ヒッチハイクでも徒歩でもいいから行く覚悟でした。上司は理恵さんの話を聞くと、普段は地元の人々に何かがあった際の救急用車を出そう、と言ってくれました。その車には備蓄のガソリンが満タンに入っていました。「仲間の家族は自分達の家族も同然」と。

 飲料水、灯油、米、塩、毛布、電池。あれば役に立つと思いつくものを集めてくれて、暗いうちから握ったであろうおにぎり100個を持って、地元の人たちが見送りに来ました。そして一緒に理恵さんの家族を探しに行こうと、上司たち、80歳を過ぎた大家のおばあさんもが7人乗りの車に乗り込みました。
 
 

「道すがら町の破滅ぶりを見て70代の両親は到底逃げきれないだろうという覚悟をしてました。実家のある町役場へ着くと地域ごとの避難所名簿に、母の名があって生きているのがわかりました。でも、連名されるはずの父の名はなくて」

 理恵さんの実家は気仙沼市本吉町三島地区。大谷海岸に面した三島地区は90%以上の家屋が流されながら、気仙沼市に後から合併された旧本吉町の情報はほとんど入手できませんでした。お母さんが避難されているはずの公民館にすぐに向かいましたが、そこにはいませんでした。近所の人が「お母さんは実家に行ってるよ、無事だよ」、と。そして、「お父さんは車はあるけど見つかってないの……」。

避難所ではギリギリのところで一命を取り留めたばかりの人たちがひしめいています。感情を表に出すようなことはとてもできない雰囲気でした。

 理恵さんのお母さんの実家は大谷公民館から4キロ内陸にありました。行ってみると、お母さんは確かにそこにいてやっと出会うことができました。


 
 お母さんははじめ高台の避難指定場所(大谷中学校の体育館、隣接の小学校、幼稚園、公民館など)へ向かわれましたが、そのすべてに水が上がり、一時は逃げ場がなくなった状態だったようです。危険察知のために体育館の出入口は全開され、雪が吹き込みました。これでは一晩もいられないと、逃げるときに家から持ってきた懐中電灯を頼りに、まっ暗い道をサンダル履きで実家までの4キロを歩き切ったそうです。

会って最初は何を言葉として発したか覚えていない、と理恵さんは言います。

「母や身内それぞれが毎晩眠れぬ中、まだ見つからない身内の心配を口にすることもこらえて凌いでいた。みな考えつく最善の選択をしながら支え合っていました」

 鬼首からの一行は理恵さんの両親を捜して、鬼首に連れていくつもりでここまで来てくれていました。
 ところが、お母さんは、
「行かないよ。お産の近いのが二人いるし、お父さんが見つかるまでここを動かない」、と。
理恵さんが困っていると、従兄が、
「(近くの避難所で身内の)お寺から食べものはもらえてるから、何も心配ない。みんな、おばちゃんには、すごく助けられてる。ずぅっとここに居てもらうから!」
と笑いながら言ったそうです。
それを聞いていた一行は、「あんなこと、なかなか言えないよ、ありがたいよなあ」。「お母さんのことはみなさんに任せて、いったん引き揚げましょう」、と。
 
 

 この時、親せきたちは離れの一間で生活していました。母屋は大屋根が崩れそうで危険、オール電化住宅にしていたために結局電気が来るまでの2ヶ月間、料理はもちろんお湯も沸かせない状態でした。井戸もふさいだため水もない。天理教のお坊さんたちが、ユンボ(※1)を操作し道を作り、どうやって知ったのか40キロ先のテント地から毎日水を届けに来てくれた。それと小さな石油ストーブの存在が命をつないだそうです。(※2)

 

現在、理恵さんのお母さんは仮設住宅での一人暮らしをされています。


※1パワーショベル、キャタピラの付いた、一人乗りの小さい小型建設機械。

※2 震災後、市町村の合併がなく小さい単位の町村で現場裁量がこまめにできていたら、と。平成の大合併の弊害のことが被災地全域で話題になりました。経費削減のために、どれだけの二次的な犠牲が出たか知れない、と言われました。
 
 

2 お父さんのこと



6月に父の遺体が実家のすぐそばの海岸で見つかって、母が入居した仮設住宅の人たちから『よかったですね』と何度も言われました。家族が行方不明のままの方々の気持ちを、言わずもがな想像させられる言葉でした」

「仮設に暮らす独り身のおばあちゃん同志、週に一度はおかずを持ち寄って元気確認のパーティーとかしたら?と母に言ったとき、『だんなさんが見つかってない人に、声が掛けづらい。声掛けないと仲間外れにされたと思うかもしれない。』無理に明るいことせず、共有できる悲しみに浸りたいような。そんな気持ちもあるんだなあ、と」
 
仁さんを実家に伴ったとき、ふたりは二階のベランダに出て一緒に自慢の海を眺めました。庭から父母が私たちを見上げて笑いました。 

「これが父とは最後でしたが、笑顔で別れたことが、自分にとっても父を知る人にとっても救いになり支えです」

「真っ黒い津波に巻き込まれ、父はどんなに恐ろしかったか、引きずり込まれていく人たちと無念の見つめ合いをしたのか、誰にも言いませんけど、布団に入ると想像しました、何度も」

「母は私の気持ちを察していて、お父さんは肝が小さいから津波を見た瞬間に心臓麻痺起こしたよ、だから、苦しむ暇がなかったはずだ、って。それを裏付けるように、火葬した時、(肺から)砂が出ませんでした。津波の犠牲者は、たくさん砂を飲んだ形跡があるのが常らしいのですが、火葬の係りの人にそう言われて、母の想像は当たったことにしています」

「父の看病や老後の世話などは一瞬もできませんでしたが、その分、母を大切に、なんとかハッピーにしたいという思いが強いです」

 

3 仁さんのところへ



 鬼首へ戻って2日後、再び出発。岩手で暮らしている仁さんのところまでは、ヒッチハイクで辿りつきました。

「バイパスまで出たらすぐに車が止まってくれました。何台か乗り継ぎました。最後の車の方に、後からお礼しようと名刺をお願いしたときに言われた言葉は生涯忘れられないと思います。私は在日3世です。このパニックでマイノリティーが攻撃されるかもしれない。そのとき、あなたは私たちの味方になってくれますか?お礼はそれで充分です、って。大正末期の関東大震災のとき、デマが原因でたくさんの朝鮮人が日本人に殺された過去を忘れてはいけないと気づかされました」
 

仁さんは岩手県の内陸、盛岡市内にある少年院がお仕事場。震災の日は職場での通常勤務でした。15時からの音楽指導の外部講師と事務室で打ち合わせ中に激しい揺れが。

「外部講師はすぐに帰宅、私たちは収容少年の安否確認をし、全員を体育館に移動させて構造物の点検をしました。ライフラインは断絶、夜に備え照明類と暖房類を集めました。結局当日は全少年を体育館で就寝させることに。余震が何度もあり不安でした。外部との連絡はなかなかつかず、収容少年の保護者の安否が全員確認できたのはだいぶ後になったのを覚えています」

 


4 原発反対派だった経緯

 
 

 理恵さんと仁さんはもともと原発に関心がつよく、活動を通して知り合った仲でした。

 
 理恵さんは東海村JCO原発事故以来、東北地域に多い原発について不安を感じ、勉強するようになりました。

「宮城県には女川原発があります。当初、絶対安全だというフレコミが地域を席巻しました。あまりにも一方向的だったので、どういう風に安全なのか疑うようになって」

  隣の岩手県においては試行錯誤の上、原発はつくらないことになった。火力発電さえない。陸前高田市の漁師さんたちが、「海だけでは暮らせない。過疎では食べていけないでしょう」と言ってくる東北電力の常套句に「過疎で何が悪い」と立ち向かって諦めさせた話は有名です。宮城県から北側である岩手県は東北電力の管轄です。宮城の、反対隣の福島県は東電の管轄。そこには10基もの原発があるのです。東北地方は確かに広いけれど、県によって全然認識が違う。

「もちろん、日本中の原発立地地域で、抵抗が起きなかったところはないでしょう。女川も福島も反対行動は当然ありました。原発の罪のひとつは、仲が良かった地域が分断されてしまって、世代を超えてしこりが残ることだと思います」

 理恵さんは姉が進学するときに家に置いていった故・高木仁三郎や広瀬隆さんの本から影響を受けたそうです。30代半ばで青森県六ヶ所村の再処理工場と出会いました。日本中の原発から出される高レベル放射性廃液から、核以外に使い道もないプルトニウムを取り出す工場で、未だに一度もまともに稼働せぬまま2兆円以上の無駄金が投入されている。

 
「原発は当初から近い周辺に限ってモニタリングテストをしないとか。六カ所村の近くで仕事をしていた事もあるんですが、5キロ圏内にはガスマスクを使った避難訓練をするのに6キロ離れていたら絶対大丈夫だ、ということにされていていた」

「再処理工場が一日で垂れ流す放射能廃液の量は100万キロワット級の一般的な原発が一年かけて流す量と同じ。そのことを事業主体の日本原燃(株)が認めています。知識が広がるにつれ仲間を探して、できる限りのことを、と努力してきました」

 

 関連映画の上映会、講演会、写真展などの企画、漁協との連携、県議、国会議員、県庁、電力会社への申し入れ、署名集め、新聞投稿、新聞やテレビでわずかでも扱えば厚く感謝のメールを出し、原発建設を許可した知事へ抗議のはがき作戦、デモ、野外ライブ、出前講座、カフェ茶話会、反原発の選挙応援、原発労働者や反対地域の裁判支援、温泉飲み会、県を超えてのつながり。
 
「原発の起源を知ると、社会のさまざまな問題がつながって見えてきやすくなります。原発にこだわらず、戦後処理、従軍慰安婦、強制連行、教科書問題、農薬、被差別部落、パレスチナ、沖縄、水俣、農的な暮らし、とフィールドが広がる一方で、出会いもその分生まれました」
 
「一番琴線に触れたのは“原発は差別構造そのもの”という、たしか写真家の樋口健二さんの言葉です」
 


5「復興は無理」という判断


 
 震災後、理恵さんはすぐに「福島でメルトダウンが起きている」と直感したそうです。

 
そして、これはすぐに離れた方がいいと。

 「でも今回の震災、福島第一原発の事故では、これまで原発反対の活動をとおして培ってきたことが全く生かせなかったのが残念でした。私が勤めていたNPOのある鬼首は日本有数の豪雪地帯ですが、谷間だから放射能の影響は回避しやすい立地。温泉地帯で湧き水もあるし備蓄米も十分にありました。せめてここに非難してきて欲しいと思ったけれど……」


 メルトダウンは起きていました。沢山の放射線が撒き散らされ、事故直後に家族の安否を確認に入った理恵さん自身も体調を崩しました。

「最終的に思ったことは、この事故の後、私たちのふるさとの復興は無理だということでした」

 心に突き刺さる一言です。

「結果的に周囲の皆は土地に残って土地を守ることがイコール復興だと言う、その違和感がどうしても拭い去れませんでした」

 反原発でずっと活動してきた人ほど、なぜか復興にこだわっていた。しかし彼らに向かって「放射能被曝に目を伏せた復興なんてありえるの?」と聞くこともやはりできませんでした。生きることへの前向きさはこの場合天秤にかけられません。

 同胞との調和か否か。

 大変難しいところを、おそらく大変な非難も浴びながらも移住を決断した勇気がありました。

「移住に踏み切ったのは、やはり誰かがまず動かなければということでした。まず自分たちが動くことで他の人たちが動くきっかけになればという思い」

 このブログのインタビューで多くの方が語ってくださる一言でもあります。


6 バリにて


 
 理恵さん夫妻にとって、あまりに壮絶な中からの離脱。

まだまだバリでの生活を本気で楽しむ余裕はあまりないかもしれません。現在はブランバトゥという外国人はあまり縁のない地域で日本人の同郷の友人と生活中。
 



 「この集落では初の日本人らしく、ふとしたきっかけで知り合った娘さんの結婚式にお呼ばれし、VIP扱いで熱い視線を一身に浴びたり、その後インドネシア語のレッスンを受けたりということもありました」、と仁さん。

仁さんはバリに来てから早速ダイビングインストラクターの資格を取得されたそう。体が動くうちに好きなことでプロとして生活できるのもいいかな、と。ただしバリでの求人は、語学や経験がネックで今のところ求職中。

「オーガニックマーケットに行った時、体験農業企画の情報を入手してささやかに農業体験をしてみたり」

「理恵がある早朝激しい腹痛に襲われ、バイクに乗れない状態で、大家さんにヘルプを頼んだら最初はバイクで来てくれて、出直し要請、車で病院に担ぎ込んだこともありました。ほんとおかげ様でした」

「毎日頼まなくても刺激的な日々です。この恵みを心から楽しめるように、感謝を忘れずバリの環境にもっと順応して行きたいと思うこのごろです」
 
 
 

  理恵さん、仁さんがバリへ辿りついただけで奇跡に近いのかもしれません。
 
 もしインドネシアについてもっと詳しい事が分かっていたら別の場所へ向かったかもしれない。今まさに経済バブル直前のインドネシアのバリです。誰もが好景気で浮かれている場所です。
 
 でも、ふたりは次第にここでの生活を楽しめるようになってきている様子です。

 

7 帰国への迷い



 理恵さんはこの8月、一時帰国しました。

 その折。仮設住宅で一人暮らしをされていたお母さんが急病で入院。長い疲れが病に出たのです。帰国期間を延長して9月上旬にバリへ。

「病気になった母を看ることができるのは自分だけかもと。前から気になっていた自然療法のコンサルタントを目指すために勉強もしたいと思って年末から日本へ戻る事にしようかと」

 
 折角ここまで来たのに?

 
「実際いつだって考えがぐらぐらと揺れています。うちの母はかなりクールなので、会えば、早くバリへ帰りなさい、みたく気丈です。でも少しでも母の力になりたいという思いがつのって、中長期的に帰国することにするかもしれません」

 理恵さんは後日、この一大決心をまた返上することになったのですが、それくらい日々気持ちが揺れるのだということを理解したいと思います。これほどのことが起きたのですから、大事なことの優先順位をつけられるほどの余裕はまだまだないのだと思います。

 これから先お二人がしっかりとバリに落ち着かれ、これからどんなことをしていきたいかを見つけられますように。
 
 きっと何かお役目があるはずですから。

 

 

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いかがでしたか?

 

今回はインタビューの録音状況があまり良くなかったことからお二人に大分加筆をいただいています。

理恵さん、仁さん、お忙しい中ご協力いただき本当にありがとうございました。