今回は、真弓さんのインタビューをわたしがまとめ、それをもとに真弓さんが書いてくださいました。
以下はわたしが若干の加筆、修正をさせていただいています。
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1
私は日本では、自然な暮らしを求めるお母さんたちを支援する傍ら、ホメオパス(ヨーロッパ発祥の自然療法士)としても長く活動してきました。
14歳のY、8歳のMとの3人家族。
福一事故前は徳島の山間部に古民家を借り、ウーフホストとして何人ものウーファーさんたちを国内外から受け入れ、お金をかけない手作りの暮らしを楽しんでいました。
ウーフ(Willing Workers On Organic Farms)というのは、お金のやりとりなしで「食事・宿泊」と「労働力」とを交換する世界的なシステムで、有機農場をはじめオーガニックな暮らしを実践している家族(ホストファミリー)と、そのような暮らしから何かを学びたい人々(ウーファー)で成り立っています。
事故当時も北欧からの若者が滞在していました。
説得の末に彼らに帰国してもらい、次いでわが子たちを海外へ逃がす準備を始めました。
北半球であれば居住経験のある国や言葉に不自由しない国もあったのですが、放射能の流れを考えると、南半球へ、と思いました。
しかし、オーストラリアやニュージーランドといった国々は移住の条件が厳しい上、物価が高いのでとても永住権を獲得するまでの期間を凌ぐことはできそうにないと思いました。その他の場所も検討したものの、治安やビザ更新のための国外移動費などから、結局は一度も訪れたことがないバリを選びました。知り合いもまったくといっていいほどいませんでした。
本当なら事故後すぐにでも移動したかったのです。
しかし当時は航空券を買うお金すらなかった。家じゅうの所持品を売るなどして出発直前まで資金を貯めました。
その間に、バリへ渡るにあたっての役立ちそうな情報収集を。
…ですが、バリの情報といえば一般的に観光客がおもな対象だったり、日本人によるものであっても現地の人の目線で書かれたものはほとんど見当たらず(※)、「バリへ行くと決めはしたものの、果たして自分が望むような暮らしが本当にできるのだろうか?」と、不安や迷いは増すばかりでした。
※真弓さんはどこにいても、質素・倹約・省エネルギーといったことを心がけて手作りしていく暮らしをしていたい暮らしをしたいと思っているそうです。
こうした不安を最終的に払拭してくれたのは、ウェブ上で見つけたアメリカ人シングルマザーによる小さなコミュニティの存在でした。思い切って、連絡を取りました。
そして到着から1ヶ月の間、竹や土などの自然素材だけで建てた彼女たちの小屋に住まわせてもらうことができたのです。そこで子どもたちと土を練り、家作りを手伝いながら、日本でウーフホストをしていた頃とは逆の立場で暮らしました。
この体験により、「バリで自分らしい暮らし方がきっとできるはずだ」、と思い至りました。気の合う仲間がすぐに見つからなくても、自分が最初の1人目になることで、似たような考えの人たちが集まってくるかもしれない、と、思うようになったのです。
2
多くのことを外注で済ませてしまう今の日本に違和感を持っています。暮らしのすべてをなるべく自分たちの手で、と、望んできました。それで、日本にいる頃から、子どもたちは学校ではなく家で学ばせる選択をしていました。
子どもとは自ら学ぶ力を持っており、それを育てる上でいちばん大切なのは、大人が手出しをしないことだと考えていました。集団保育や集団教育は最も「手出し」することになるのでは、と。
とりわけ日本の教育は、個性よりも、同列に並ぶことをよしとしています。また、我慢、辛抱といったものを美徳にして、ひとりひとりが思うように生きることを「自分勝手」と諌めるふしがあります。……原発事故後の危険性を理解していても、「自分だけが逃げるわけにはいかない」と言う人は非常に多いですよね。
私自身は多忙な共働きの家庭で育ったため、両親に押さえつけられるような機会がなかったのです。そのせいか、自分のやりたいことは反対に遭ってもやり通すというスタイルが身についている。今回のバリ島への避難についても、反対をしようとする人は周囲にひとりもいませんでした。
人はみな自分が思うように生きてよいのではないでしょうか。子どもに学校給食を食べさせたくないなら、お弁当を持参させてよいのです。そんな基本的な権利に対して許可をもらわなければならないと考えるところからすでにおかしいのではないでしょうか。
実際に、私たちが私の母と同居をしていたわずかな期間、祖母の気持ちを汲み取ってほんの一時、学校に通うことになった息子には自分の判断でお弁当を持たせていました。
学校側はそれを禁ずるようなことはしませんでした。ただ、担任の先生は「ひとりだけみんなと違って、Yくん大丈夫ですか?」、と、心配しました。Yは、わが家で「人はもともとみんな違う」という前提のもとに学んできている息子だったので、お弁当のおかずを喜ぶことはあっても、みんなとの違いを嫌がることは一度もありませんでした。
3
子どもを産んで育てるというのは、人間を産み育てること。これ以上の社会参加はないと私は考えてきました。
たとえば、子どもにつきっきりの時期はゴミ拾いの活動には参加できないけれども、ゴミを捨てない子、ゴミを拾う子に育てることができれば、それが素晴らしい社会参加になるはずだと。
「育児だけしていたら社会に取り残される」というお母さんたちの焦る声をよそに、「子どもを育てることこそが最大の社会参加よ!」と思ってやってきた私ですが、こういった考えはバリに来てからもまったく変わっていません。それどころか、仕事は二の次、三の次で家庭や子どもを優先するバリたちには却って安堵と親しみを覚えます。現代の日本でそれをやっていた私は、相当に浮いた存在であったろうと思います。
ひと月ほど、ごく普通のバリ人家庭で間借りをして暮らしていたことがあります。親族がひとつの敷地に集って暮らし、誰の子であっても自然に代わるがわる世話をしたり抱いたりする、コミュニティという言葉がぴったり似合う生活がそこにはありました。
日本では、お金をかけたりルールを設けたりしなければなかなか作り出されなかったコミュニティ…それらは残念なことに私が求めているものではありませんでした。ところがバリに来てみたら、そこらじゅうにまったく違和感が沸かない、本物と思える「コミュニティ」が普通に存在していたのですから、驚きでした。
日本の田舎で暮らしていた頃も、周りの家庭では0~1歳児から保育所に預けてしまい、子どもが近所で遊ぶ姿を見かけることがあまりありませんでした。子どもたちが自然のなかで遊ぶのは、管理された体験教室の中だけなのでしょうか。私は子どもたちの暮らしそのものを自然の中に置き、自然に暮らし、自然に学び、自然に遊んでほしいと思っていました。
幸いなことにうちの子供たちは今では、彼らなりに自然との付き合い方を身につけていると思います。言葉の壁も気にせず近所の子どもたちと遊び回っています。
最近ご縁があって週1回のインドネシア語教室に通い始めた彼らは、遊びの中で覚えた単語を駆使し、熟年同級生たちを唸らせたりもしているようです。
それでもやはり(言葉の問題も含めて)日本人のお子さんが周囲にいる環境を意識しながら住まいを探しています。これまでクロボカン→ニュクニン→ボナ→ニュクニンと行き津戻り津しながら、定住にふさわしい場所を探しています。家も土地も実際に住んでみなければわからないことが多いので、根気よく探してみようと思っています。
これは避難されて来ている皆さんにも共通するのではないかと思うのですが、ほんの数日で考えや気持ちが二転三転してしまったりするのです。原発事故というあまりに大きな出来事によって、これまでの生活基盤が覆されてしまったのですから、まったく新しい土地で、どのように生きていくかを簡単に定められないのは当然のことかもしれませんよね。
4
私たちは以前から食べ物にも気を遣ってきていましたが、今、野菜はUBUDの市場にあるオーガニック専門の店で買っています。UBUDには定期的に開かれるオーガニック・マーケットもありますが、やはり市場に比べると値段が高い。今購入している店の野菜は、慣行栽培のものとほとんど値段が変わらないんですよ。お米や乾物はスーパーで。肉や魚はもともと3人とも食べないので、これだけで大体事が足りています。
先日、ビザを取るためにマレーシアへ行った際、食べるものが気になって調べているうちに、マレーシアがウクライナ産小麦の輸入量を増やしていることを知って青くなり、滞在中は小麦製品を食べるのをやめました。
インドネシアの小麦事情も気になって調べてみたのですが、インドネシアはもともと多い国産小麦のシェアをさらに増やす方向とのことで安心しました。それでもスーパーで売っているものは出所がわからないので、小さな商店で量り売りをしている100%ジャワ産小麦の粉を買っています。価格もたいへん安いのです。
私は「質がよいものはその分高い」という常識を受け入れることに抵抗があり、日本で経営していた自然食品店も畳んでしまったことがあります。よい物が安く買えるような社会にしていかなければと思うのです。高価なオーガニックショップの商品よりも、ローカルのお店にある良質なものを選んで使いたいと考えています。かといって、それほど厳格に選んでいるわけではないんですけどね。でも、こういった自分が大切にしていきたいことというのは、日本にいた頃も今もまったく変わっていませんね。
5
少し前から、バリへの避難を希望する人や避難したばかりの人への情報提供を目的に、非公開
ブログを書いています。
私たちの生活体験を記すことによって、バリに来たいと思っている人には「こんなことができるんだ!」ということを知ってほしいし、苦労してやって来た人には、うまく生活が回るよう手助けをしてあげたいと思っているんです。
それと同時進行で計画しているのが、日本に残っている人たちへの食糧支援です。バリ産のオーガニック米をはじめ、安全な食物を日本へ送りたいんです。できれば将来的には自分たちで土地を借りて育てた作物を。今現在バリで作られているものは本来バリにいる人たちが食べるためのものだと思うので、それをお金で買い漁ってしまうのはどうだろうという気持ちがあります。
作物を作る側や送る側にも避難者が関わり、新たな仕事を作り出すことができれば、避難してきた人への支援にもなります。バリへ逃げて来た人たち、日本に残っている人たちの双方が接点を持つことでお互いを支え合うというこのプロジェクトを、ビンタンパリ(南十字星)と名づけて準備を進めているところです。
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いかがでしたか?
バリにはここ1,2か月のあいだに移住されてきている日本の方が増えている印象があります。
移住されてきている方は、皆さんそれぞれ。前から何度かバリへ来たことがある人もいれば、一度も来たことがなかった人もいます。個性のタイプも違えば、日本での暮らしのスタイルもそれぞれ。ここがすっかり気に入って「バリに決めてよかった」という方もいれば、一度来てみて帰られる方もいるとか。皆さんに共通することといえば、「とにかくやってみよう」という気持ちでしょうか。
この先真弓さんの活動は、多くの方のヒントになる気がしています。