2012年10月1日月曜日

東北からの移住


 

 
 

 木村理恵さん(42)と渡邉仁さん(45)は、今年4月からバリへ移住。

 同郷の友人の誘いで2月に理恵さんが下見に来たのが初めてのバリ。仁さんにおいては全く初めての地での生活がはじまっています。

 ふたりが結婚を決めたのは昨年暮で、宮城県気仙沼市の理恵さんの実家へ仁さんが挨拶へ行ったのは昨年3月6日のことでした。

「理恵のお父さんに会ったのはそれが最初で最後でした」と、仁さん。お父さんは津波の犠牲者になられたのです。

 
 

1 お母さんが見つかった!

 


理恵さんは当時山形と宮城の県境にある近江山脈のしっぽの辺り、大崎市鳴子温泉鬼首(おにこうべ)という里山で、オーガニックのお米を作るNPOで働いていました。
 
震災の日から4日後。実家の安否を確認に行きたいこと、しばらく連絡が取れなくなることを、職場の上司に伝えに行きました。車で2時間半の距離。ヒッチハイクでも徒歩でもいいから行く覚悟でした。上司は理恵さんの話を聞くと、普段は地元の人々に何かがあった際の救急用車を出そう、と言ってくれました。その車には備蓄のガソリンが満タンに入っていました。「仲間の家族は自分達の家族も同然」と。

 飲料水、灯油、米、塩、毛布、電池。あれば役に立つと思いつくものを集めてくれて、暗いうちから握ったであろうおにぎり100個を持って、地元の人たちが見送りに来ました。そして一緒に理恵さんの家族を探しに行こうと、上司たち、80歳を過ぎた大家のおばあさんもが7人乗りの車に乗り込みました。
 
 

「道すがら町の破滅ぶりを見て70代の両親は到底逃げきれないだろうという覚悟をしてました。実家のある町役場へ着くと地域ごとの避難所名簿に、母の名があって生きているのがわかりました。でも、連名されるはずの父の名はなくて」

 理恵さんの実家は気仙沼市本吉町三島地区。大谷海岸に面した三島地区は90%以上の家屋が流されながら、気仙沼市に後から合併された旧本吉町の情報はほとんど入手できませんでした。お母さんが避難されているはずの公民館にすぐに向かいましたが、そこにはいませんでした。近所の人が「お母さんは実家に行ってるよ、無事だよ」、と。そして、「お父さんは車はあるけど見つかってないの……」。

避難所ではギリギリのところで一命を取り留めたばかりの人たちがひしめいています。感情を表に出すようなことはとてもできない雰囲気でした。

 理恵さんのお母さんの実家は大谷公民館から4キロ内陸にありました。行ってみると、お母さんは確かにそこにいてやっと出会うことができました。


 
 お母さんははじめ高台の避難指定場所(大谷中学校の体育館、隣接の小学校、幼稚園、公民館など)へ向かわれましたが、そのすべてに水が上がり、一時は逃げ場がなくなった状態だったようです。危険察知のために体育館の出入口は全開され、雪が吹き込みました。これでは一晩もいられないと、逃げるときに家から持ってきた懐中電灯を頼りに、まっ暗い道をサンダル履きで実家までの4キロを歩き切ったそうです。

会って最初は何を言葉として発したか覚えていない、と理恵さんは言います。

「母や身内それぞれが毎晩眠れぬ中、まだ見つからない身内の心配を口にすることもこらえて凌いでいた。みな考えつく最善の選択をしながら支え合っていました」

 鬼首からの一行は理恵さんの両親を捜して、鬼首に連れていくつもりでここまで来てくれていました。
 ところが、お母さんは、
「行かないよ。お産の近いのが二人いるし、お父さんが見つかるまでここを動かない」、と。
理恵さんが困っていると、従兄が、
「(近くの避難所で身内の)お寺から食べものはもらえてるから、何も心配ない。みんな、おばちゃんには、すごく助けられてる。ずぅっとここに居てもらうから!」
と笑いながら言ったそうです。
それを聞いていた一行は、「あんなこと、なかなか言えないよ、ありがたいよなあ」。「お母さんのことはみなさんに任せて、いったん引き揚げましょう」、と。
 
 

 この時、親せきたちは離れの一間で生活していました。母屋は大屋根が崩れそうで危険、オール電化住宅にしていたために結局電気が来るまでの2ヶ月間、料理はもちろんお湯も沸かせない状態でした。井戸もふさいだため水もない。天理教のお坊さんたちが、ユンボ(※1)を操作し道を作り、どうやって知ったのか40キロ先のテント地から毎日水を届けに来てくれた。それと小さな石油ストーブの存在が命をつないだそうです。(※2)

 

現在、理恵さんのお母さんは仮設住宅での一人暮らしをされています。


※1パワーショベル、キャタピラの付いた、一人乗りの小さい小型建設機械。

※2 震災後、市町村の合併がなく小さい単位の町村で現場裁量がこまめにできていたら、と。平成の大合併の弊害のことが被災地全域で話題になりました。経費削減のために、どれだけの二次的な犠牲が出たか知れない、と言われました。
 
 

2 お父さんのこと



6月に父の遺体が実家のすぐそばの海岸で見つかって、母が入居した仮設住宅の人たちから『よかったですね』と何度も言われました。家族が行方不明のままの方々の気持ちを、言わずもがな想像させられる言葉でした」

「仮設に暮らす独り身のおばあちゃん同志、週に一度はおかずを持ち寄って元気確認のパーティーとかしたら?と母に言ったとき、『だんなさんが見つかってない人に、声が掛けづらい。声掛けないと仲間外れにされたと思うかもしれない。』無理に明るいことせず、共有できる悲しみに浸りたいような。そんな気持ちもあるんだなあ、と」
 
仁さんを実家に伴ったとき、ふたりは二階のベランダに出て一緒に自慢の海を眺めました。庭から父母が私たちを見上げて笑いました。 

「これが父とは最後でしたが、笑顔で別れたことが、自分にとっても父を知る人にとっても救いになり支えです」

「真っ黒い津波に巻き込まれ、父はどんなに恐ろしかったか、引きずり込まれていく人たちと無念の見つめ合いをしたのか、誰にも言いませんけど、布団に入ると想像しました、何度も」

「母は私の気持ちを察していて、お父さんは肝が小さいから津波を見た瞬間に心臓麻痺起こしたよ、だから、苦しむ暇がなかったはずだ、って。それを裏付けるように、火葬した時、(肺から)砂が出ませんでした。津波の犠牲者は、たくさん砂を飲んだ形跡があるのが常らしいのですが、火葬の係りの人にそう言われて、母の想像は当たったことにしています」

「父の看病や老後の世話などは一瞬もできませんでしたが、その分、母を大切に、なんとかハッピーにしたいという思いが強いです」

 

3 仁さんのところへ



 鬼首へ戻って2日後、再び出発。岩手で暮らしている仁さんのところまでは、ヒッチハイクで辿りつきました。

「バイパスまで出たらすぐに車が止まってくれました。何台か乗り継ぎました。最後の車の方に、後からお礼しようと名刺をお願いしたときに言われた言葉は生涯忘れられないと思います。私は在日3世です。このパニックでマイノリティーが攻撃されるかもしれない。そのとき、あなたは私たちの味方になってくれますか?お礼はそれで充分です、って。大正末期の関東大震災のとき、デマが原因でたくさんの朝鮮人が日本人に殺された過去を忘れてはいけないと気づかされました」
 

仁さんは岩手県の内陸、盛岡市内にある少年院がお仕事場。震災の日は職場での通常勤務でした。15時からの音楽指導の外部講師と事務室で打ち合わせ中に激しい揺れが。

「外部講師はすぐに帰宅、私たちは収容少年の安否確認をし、全員を体育館に移動させて構造物の点検をしました。ライフラインは断絶、夜に備え照明類と暖房類を集めました。結局当日は全少年を体育館で就寝させることに。余震が何度もあり不安でした。外部との連絡はなかなかつかず、収容少年の保護者の安否が全員確認できたのはだいぶ後になったのを覚えています」

 


4 原発反対派だった経緯

 
 

 理恵さんと仁さんはもともと原発に関心がつよく、活動を通して知り合った仲でした。

 
 理恵さんは東海村JCO原発事故以来、東北地域に多い原発について不安を感じ、勉強するようになりました。

「宮城県には女川原発があります。当初、絶対安全だというフレコミが地域を席巻しました。あまりにも一方向的だったので、どういう風に安全なのか疑うようになって」

  隣の岩手県においては試行錯誤の上、原発はつくらないことになった。火力発電さえない。陸前高田市の漁師さんたちが、「海だけでは暮らせない。過疎では食べていけないでしょう」と言ってくる東北電力の常套句に「過疎で何が悪い」と立ち向かって諦めさせた話は有名です。宮城県から北側である岩手県は東北電力の管轄です。宮城の、反対隣の福島県は東電の管轄。そこには10基もの原発があるのです。東北地方は確かに広いけれど、県によって全然認識が違う。

「もちろん、日本中の原発立地地域で、抵抗が起きなかったところはないでしょう。女川も福島も反対行動は当然ありました。原発の罪のひとつは、仲が良かった地域が分断されてしまって、世代を超えてしこりが残ることだと思います」

 理恵さんは姉が進学するときに家に置いていった故・高木仁三郎や広瀬隆さんの本から影響を受けたそうです。30代半ばで青森県六ヶ所村の再処理工場と出会いました。日本中の原発から出される高レベル放射性廃液から、核以外に使い道もないプルトニウムを取り出す工場で、未だに一度もまともに稼働せぬまま2兆円以上の無駄金が投入されている。

 
「原発は当初から近い周辺に限ってモニタリングテストをしないとか。六カ所村の近くで仕事をしていた事もあるんですが、5キロ圏内にはガスマスクを使った避難訓練をするのに6キロ離れていたら絶対大丈夫だ、ということにされていていた」

「再処理工場が一日で垂れ流す放射能廃液の量は100万キロワット級の一般的な原発が一年かけて流す量と同じ。そのことを事業主体の日本原燃(株)が認めています。知識が広がるにつれ仲間を探して、できる限りのことを、と努力してきました」

 

 関連映画の上映会、講演会、写真展などの企画、漁協との連携、県議、国会議員、県庁、電力会社への申し入れ、署名集め、新聞投稿、新聞やテレビでわずかでも扱えば厚く感謝のメールを出し、原発建設を許可した知事へ抗議のはがき作戦、デモ、野外ライブ、出前講座、カフェ茶話会、反原発の選挙応援、原発労働者や反対地域の裁判支援、温泉飲み会、県を超えてのつながり。
 
「原発の起源を知ると、社会のさまざまな問題がつながって見えてきやすくなります。原発にこだわらず、戦後処理、従軍慰安婦、強制連行、教科書問題、農薬、被差別部落、パレスチナ、沖縄、水俣、農的な暮らし、とフィールドが広がる一方で、出会いもその分生まれました」
 
「一番琴線に触れたのは“原発は差別構造そのもの”という、たしか写真家の樋口健二さんの言葉です」
 


5「復興は無理」という判断


 
 震災後、理恵さんはすぐに「福島でメルトダウンが起きている」と直感したそうです。

 
そして、これはすぐに離れた方がいいと。

 「でも今回の震災、福島第一原発の事故では、これまで原発反対の活動をとおして培ってきたことが全く生かせなかったのが残念でした。私が勤めていたNPOのある鬼首は日本有数の豪雪地帯ですが、谷間だから放射能の影響は回避しやすい立地。温泉地帯で湧き水もあるし備蓄米も十分にありました。せめてここに非難してきて欲しいと思ったけれど……」


 メルトダウンは起きていました。沢山の放射線が撒き散らされ、事故直後に家族の安否を確認に入った理恵さん自身も体調を崩しました。

「最終的に思ったことは、この事故の後、私たちのふるさとの復興は無理だということでした」

 心に突き刺さる一言です。

「結果的に周囲の皆は土地に残って土地を守ることがイコール復興だと言う、その違和感がどうしても拭い去れませんでした」

 反原発でずっと活動してきた人ほど、なぜか復興にこだわっていた。しかし彼らに向かって「放射能被曝に目を伏せた復興なんてありえるの?」と聞くこともやはりできませんでした。生きることへの前向きさはこの場合天秤にかけられません。

 同胞との調和か否か。

 大変難しいところを、おそらく大変な非難も浴びながらも移住を決断した勇気がありました。

「移住に踏み切ったのは、やはり誰かがまず動かなければということでした。まず自分たちが動くことで他の人たちが動くきっかけになればという思い」

 このブログのインタビューで多くの方が語ってくださる一言でもあります。


6 バリにて


 
 理恵さん夫妻にとって、あまりに壮絶な中からの離脱。

まだまだバリでの生活を本気で楽しむ余裕はあまりないかもしれません。現在はブランバトゥという外国人はあまり縁のない地域で日本人の同郷の友人と生活中。
 



 「この集落では初の日本人らしく、ふとしたきっかけで知り合った娘さんの結婚式にお呼ばれし、VIP扱いで熱い視線を一身に浴びたり、その後インドネシア語のレッスンを受けたりということもありました」、と仁さん。

仁さんはバリに来てから早速ダイビングインストラクターの資格を取得されたそう。体が動くうちに好きなことでプロとして生活できるのもいいかな、と。ただしバリでの求人は、語学や経験がネックで今のところ求職中。

「オーガニックマーケットに行った時、体験農業企画の情報を入手してささやかに農業体験をしてみたり」

「理恵がある早朝激しい腹痛に襲われ、バイクに乗れない状態で、大家さんにヘルプを頼んだら最初はバイクで来てくれて、出直し要請、車で病院に担ぎ込んだこともありました。ほんとおかげ様でした」

「毎日頼まなくても刺激的な日々です。この恵みを心から楽しめるように、感謝を忘れずバリの環境にもっと順応して行きたいと思うこのごろです」
 
 
 

  理恵さん、仁さんがバリへ辿りついただけで奇跡に近いのかもしれません。
 
 もしインドネシアについてもっと詳しい事が分かっていたら別の場所へ向かったかもしれない。今まさに経済バブル直前のインドネシアのバリです。誰もが好景気で浮かれている場所です。
 
 でも、ふたりは次第にここでの生活を楽しめるようになってきている様子です。

 

7 帰国への迷い



 理恵さんはこの8月、一時帰国しました。

 その折。仮設住宅で一人暮らしをされていたお母さんが急病で入院。長い疲れが病に出たのです。帰国期間を延長して9月上旬にバリへ。

「病気になった母を看ることができるのは自分だけかもと。前から気になっていた自然療法のコンサルタントを目指すために勉強もしたいと思って年末から日本へ戻る事にしようかと」

 
 折角ここまで来たのに?

 
「実際いつだって考えがぐらぐらと揺れています。うちの母はかなりクールなので、会えば、早くバリへ帰りなさい、みたく気丈です。でも少しでも母の力になりたいという思いがつのって、中長期的に帰国することにするかもしれません」

 理恵さんは後日、この一大決心をまた返上することになったのですが、それくらい日々気持ちが揺れるのだということを理解したいと思います。これほどのことが起きたのですから、大事なことの優先順位をつけられるほどの余裕はまだまだないのだと思います。

 これから先お二人がしっかりとバリに落ち着かれ、これからどんなことをしていきたいかを見つけられますように。
 
 きっと何かお役目があるはずですから。

 

 

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いかがでしたか?

 

今回はインタビューの録音状況があまり良くなかったことからお二人に大分加筆をいただいています。

理恵さん、仁さん、お忙しい中ご協力いただき本当にありがとうございました。

 

2012年8月17日金曜日

常滑からまずは父子で移住

ツイッターで@nobutomorinoさんの“眼力どアップ”のアイコンを見たことがある方は結構いらっしゃるのでは。
森野信人(脱原発2+沢山票)さんは現在フォロワー数13672人。
 
ちょっと只者ではない印象があります。
 
このところはバリへの移住を考えている人へのいろいろな情報提供をツイートされていて、7月には日本国内で移住を考えている方を集め会合を開催。
森野信人さんというのはアカウント名、本当は今野信之さん。
ツイッター名は家族の名前nobu,tomo,rinoを羅列したらこの名前になったらしい。
 
一体どんな方なのでしょう?
 
1
 
今野さんは、昨年12月にバリへ移住。
11月に一度下見に。12月からはビジネスマルチビザとソーシャルビザで2ヶ月に一度帰国しながらバリでの暮らしを続けています。来た当初はお子さん(現在小学校3年生)の学校をまず決め、 それから通学に便利な場所として今の住まいを年間契約。学校は欧米人の子供の比率が高いインターナショナル系私立で、ジンバランエリアに。住まいは知り合いの紹介にてそこからは比較的近くのヌサドゥアエリアに。
この学校、新しくきれいで環境も設備が整っているのでバリでは皆が行きたがる学校なのですが、何しろ場所が不便。実際にはまずは住まいが定まってから学校を考える人が多いので、いいなぁ、と思いながら諦められる人が多いような気がします。
「海外で暮らすのだから早いうちから英語環境の中に放り込んだ方がいいかと。僕自身の経験から語学は後からだと苦労すると思って」
先に学校を決めちゃうのは、確かにやり方のひとつですね。
「原発事故があって、すぐにでも移住を考えました。でも、そのすぐ後に娘がヒップホップの世界大会(World HipHop Champion Ships in Lasvegas)に出場することが決まった。妻は陶芸家なんですが、偶然こちらも国際的なコンペでグランプリを受賞。こんな事が重なって、国外への移住が遅れました」
 
「何度も、何度も、家族で話し合い、まずは僕と娘だけ先に来る事に。妻も一連の個展、展覧会が落ち着く今年10月からバリへ来ます」
ヒップホップの国内予選は原発事故後間もない昨年3月26日、東京で開催されました。しかし今野さんは被曝を恐れ迷いに迷いつつも出場を決めた。
 
「世界への切符をかけ一年間やってきたわけですから。この判断が良かったのか悪かったのか、今でも頭の中が錯綜状態になります。しかしその結果、世界大会に出場できた。娘と私達家族にとって素晴らしい経験であり宝物でもありました」
 
2
 
今野さん一家はとても多彩。
まずはお子さん。
「3歳ちょっと前から大人たちに混ざってヒップホップを習わせました。最終的には世界的に実績があり尊敬できる先生に、と、住まいから2時間かけて通ってました」
 
それが、世界大会出場につながった。バリへ来てからは今年7月に行われたインドネシア国内の大会『i-ONE 2012 』で大人たちをしのいで何とフリーダンスバトル部門で優勝。若干8歳の女の子にして、これは相当な実力です。インドネシア勢もさぞかし驚いた事でしょう。
奥様の今野朋子さんは、陶芸家。
もともとは器(=食器用)をつくられていたそうですが、出産後に「これからは作りたいものだけを作る」と決めて芸術性の高い作品作りを始められたそうです。
「 僕が子守を引き受けたりするくらい(笑)、意欲的なんです。僕も一時一緒にやっていましたが、その後は企画やプロジェクトのマネージメント、設備的な部分(焼成窯を独自につくるなど)で支援する立場に(※)」
 

 
奥様が陶芸家とおっしゃるのはあくまでも焼き物という手法だから。
ジョージア・オキーフを想像するような植物のようなディテールの作品は陶という括りをとっくに飛び出していて、圧巻のオブジェです。
つくり込むほどに作風が次第に細かく奥深くなっていった印象があります。すごい、すごい。
こうしたご家族に囲まれて、今野さんご自身は?
 
 
 
3
 
もともと横浜出身で秋田育ち。高校時代はモトクロスレーサーを目指す。
89年から香港に。
香港中文大学で北京語を取得、生活しながら広東語も覚える。現地の会社で働いたのち、建設重機リースの代理店と施工会社を立ち上げて独立。
 
仕事の合間にもともと感心があった経絡も覚え(日本から出張でやってくる人たちと一緒にほぼ毎日施術を受けていたそうです!)、後々自分が施術する立場に。
 
「香港での体験はとても貴重なでした。私の基礎とも言える事」
 
時代的にデジタルカメラやインターネットが現れた頃でもあり、好奇心旺盛な今野さんはデジカメでの写真の仕事や、まだ当時はほんの一部にしかなかった現地発信型コミュニティサイトを立ち上げ、中国返還を前にした香港の情報を発信したり。
「当時はそうしたことが何でも収入になっていましたね」
しかし97年に香港が中国に返還される折、先は景気も悪くなるだろうと踏んで香港を離れヨーロッパへ行こうと。
 
朋子さんとは92年に結婚。朋子さんは香港で陶芸を始めたそうですが、日本の陶芸についてまだ知らないということで夫婦はまずは日本国内で体現したい、と、いったん帰国。そして、縁あって愛知県常滑市を訪れたのだそうです。
「はじめは妻の単身帰国で半年だけの国内修行のつもりだったのに、フィーリングというか呼ばれたというか不思議なもですね、常滑で暮らすことになりました。以来子供も生まれ12年も」
今野さん、常滑では陶芸に関わる仕事をする傍らで本格的な整体師に。
「香港時代からゆくゆくは人を助ける仕事がしたいと思っていました」
 
骨接ぎになるつもりで日本で柔道整復師専門学校へも行ってみた。しかし結局は先にとある師匠に出会い共感しその整体術を取得したことを自己流に発展させた整体術で開業。
 
「僕の整体はヒーリングではなくもっと直接的で筋肉に直接アプローチするような手法。定義のテクニックに頼らない基本第一主義の整体です」
建築関係から整体師に、というのは何となく真逆のような印象もあるのですが?
原理的には建築も整体(=カラダ)はまったく同じだと思うんです。治すにしても造るにしても骨格と他の部材、カラダでいうと筋肉や血流や血行がしっかりしていなければならない。それがすごく大事で必要なのだけど、付随しているものが悪くなると次第に全体がダウンしていく。良くするためにどうしたらいいかを考える上で、この二つは同じ。僕たち施術者は治すのではなく、体のボタンを自然治癒力が元に戻り最も効率よく働くようにそっと後ろから背中を押してあげるだけ」
「モトクロスレーサーを目指していた頃、レース中ジャンプで転倒、背骨を圧迫骨折し半年の重症を負った事があります。それが整体や身体に興味を持ったきっかけになったかな」
建築関係はきっと、もともと得意な技術系の経歴から。しかし香港の会社は現在ほぼオーナー権のみで仕事の一切は現地の香港人に任せているとのこと。今も年に数回香港に行き会社の経営に参加しているそうです。
……割り切りの良さ。これが今野さんの個性のひとつだと思いました。
 
世の中、ひとつ手放せばまたひとつ新しいものが入ってくることをご存知なんですね、きっと。そしてひとつひとつは点ではなく経験+経験+興味本位が次のやりたい事で全部があって今があるという事。
 
4
 
「横浜、秋田、香港はそれぞれ10年前後。だから、12年たってそろそろ他へ動こうかな、という思いもあった。そんな折に原発事故が。娘はまだ当時7歳、だからもう、すぐに移住を考えたんです」
「バリへは香港時代に休暇で何度か夫婦で来た事があって。ここの雰囲気が好きだったので移住先にはすぐにバリ、と思い立ちました」
もちろん、南半球である事もきっと考えの中に入っていた事でしょう。
「一番大事な事はとにかく放射能汚染地から、日本から離れ安全な食を確保する事だと」
事故後はすぐに線量計を購入。ツイッターでも恐らく誰よりも早く原発反対のハッシュタグをつくった。
「ところが、最初は全然反応が無かったですね。一人で11時と23時に呼びかけるように毎日繰り返し叫んでいました」
 
「次第にタグの投稿は増えたけれど、行動に出る人は殆ど無しの状態でした。その時に、これは誰かが先ず行動を起こして例を示さないと、と思った。まずは自分たちが動こう、と。去年から今まで、ずっとこの事(=移住のと被曝から遠ざかる保養の重要性)を訴え続けています」
 
「子供は勿論ですが若年層も被曝したら将来の健康に障害がある。これを分かってて受諾し被曝したら絶対にダメです。すでに気がついている親御さんの精神的な気苦労も、たぶんこれから色々な問題が出てきます。海外で南半球である“安息の地バリ島”で短期でも保養する事がどれ程生き抜くために大事か来て見てとても実感しています
今ではもう各地で影響が出始めている内部被爆。この危険性にも早くに気がつき行動を起こしていました。
今はもう大丈夫、というのは逆。既に備蓄や在庫は底をつき、食品全体が内部被爆の原因になる。産地偽装や給食の問題はもちろん当初からありましたよね。今はさらに怪しいし、危険なんです。でも、今気づいた人でも遅くない。とにかく移住とはこういうもの、バリはこんなところだという事をたくさんの人に知ってもらいたくて、2ヶ月に一度施術の為に帰国する度に説明会を、と。これは希望があれば今後もライフワークとして続けて行きたいです」
この夏、大阪と常滑で開催した“バリ島疎開移住を考える会合”に参加したうち、相当数の方々が夏休みを使ってバリへ来ているらしいという情報も。
「バリへの第一歩で自分が『こんなものがあったらいいなぁ』と実感したものが、ケアハウス。海外自体がはじめての人や、移住先での不安を抱える方々が共同生活または短期宿泊できるホームステイ形式のケアハウスの計画もしています。とりあえず自分たちが今月末から帰国している間、ヌサドゥアの住まいを提供したいと思って今希望者を募っているところ」
これは最近ツイッター上で繰り返しインフォメーションされている件。避難目的の家族限定で安価にて提供予定。
 
5
 
バリへ移住。
 
その際、経済的にやっていけるのかどうか。割り切って考えればバリでは観光業に就職するか自営業を立ち上げるかの、どちらかが主な収入の柱。
一番の近道はお父さんは日本に残って母子だけ送り出すのが、差し当たりベストな選択でしょう。移住より先に就職口を探すような時間の猶予はない。被曝は毎日、毎食すすんでいます」
お父さんが経済的に支援、お母さんは子供を安全な場所でしっかり育てる、という案です。
「とにかく、観光ビザやソーシャルビザの期限内である1-2ヶ月、試しに来てみていただきたいんです。滞在しながら移住について実際的実感し肌で感じ考えてもらえたら」
今野さんの計画はどんどん進んでいきます。
 
香港から常滑へ、そして今度はバリで。
 
建築と整体が同じ原理だと言う今野さんのバリ計画は、きっとそれらと共通するビジョンがあるのでしょう。
これは面白い事になってきました。
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いかがでしたか?
才能豊かな一家が目指しているのは、競争やタイトルのなかでより高い地位ではないのです。
 
一人でも多くの人にちょっとしたきっかけづくりができたら、という願い。
世界で評価されるには日本にいる方がずっと近道だと思われますが、今野さん一家はどうやらそれは二の次に。これから先バリでどのように暮らしていかれるのか、在住者の私としてはすごく興味深く楽しみです。
……余談ですが、昔バリに世界からたくさんのクリエイティブな人たちが集まった時代があります。 もしかしたら、今またそれに似た気風が戻ってきているのかも。あ、でも、きっとそうなのでしょう。何しろきっかけが震災で放射能汚染。誰もが精一杯その事を考え行動起こしたとしたら、囚われのない自由な発想持ち主がバリへと流れ着くのは自然な事かもしれないな、と思います。
 
 
※ → 中部国際空港セントレア一階団体ロビーにある巨大陶壁“渚”は世界的陶芸家吉川正道氏の作品ですが、今野さんがコンペ資料作成から作業工程管理やマネージメント、工事施工監修や最終的には記録撮影や製作記録プロモーションDVDの作成までの全行程を管理されたそうです。
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《お知らせ》
●バリでは最近母子で一時的に避難されて来ている方が増えています。ウブッドにはこうした皆さんの情報源になればと在住者との交流会が開かれています。今のところ不定期ですが頻繁に行われていますので、情報を入手されたい方はご一報ください。
 

2012年4月29日日曜日

移住者の立場で移住者を支援

松浦真弓さんは、昨年12月からバリへ移住されています。

今回は、真弓さんのインタビューをわたしがまとめ、それをもとに真弓さんが書いてくださいました。

以下はわたしが若干の加筆、修正をさせていただいています。

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1 


私は日本では、自然な暮らしを求めるお母さんたちを支援する傍ら、ホメオパス(ヨーロッパ発祥の自然療法士)としても長く活動してきました。

14歳のY、8歳のMとの3人家族。

福一事故前は徳島の山間部に古民家を借り、ウーフホストとして何人ものウーファーさんたちを国内外から受け入れ、お金をかけない手作りの暮らしを楽しんでいました。

ウーフ(Willing Workers On Organic Farms)というのは、お金のやりとりなしで「食事・宿泊」と「労働力」とを交換する世界的なシステムで、有機農場をはじめオーガニックな暮らしを実践している家族(ホストファミリー)と、そのような暮らしから何かを学びたい人々(ウーファー)で成り立っています。

事故当時も北欧からの若者が滞在していました。

説得の末に彼らに帰国してもらい、次いでわが子たちを海外へ逃がす準備を始めました。

北半球であれば居住経験のある国や言葉に不自由しない国もあったのですが、放射能の流れを考えると、南半球へ、と思いました。

しかし、オーストラリアやニュージーランドといった国々は移住の条件が厳しい上、物価が高いのでとても永住権を獲得するまでの期間を凌ぐことはできそうにないと思いました。その他の場所も検討したものの、治安やビザ更新のための国外移動費などから、結局は一度も訪れたことがないバリを選びました。知り合いもまったくといっていいほどいませんでした。


本当なら事故後すぐにでも移動したかったのです。

しかし当時は航空券を買うお金すらなかった。家じゅうの所持品を売るなどして出発直前まで資金を貯めました。

その間に、バリへ渡るにあたっての役立ちそうな情報収集を。

…ですが、バリの情報といえば一般的に観光客がおもな対象だったり、日本人によるものであっても現地の人の目線で書かれたものはほとんど見当たらず(※)、「バリへ行くと決めはしたものの、果たして自分が望むような暮らしが本当にできるのだろうか?」と、不安や迷いは増すばかりでした。
※真弓さんはどこにいても、質素・倹約・省エネルギーといったことを心がけて手作りしていく暮らしをしていたい暮らしをしたいと思っているそうです。


 
こうした不安を最終的に払拭してくれたのは、ウェブ上で見つけたアメリカ人シングルマザーによる小さなコミュニティの存在でした。思い切って、連絡を取りました。

そして到着から1ヶ月の間、竹や土などの自然素材だけで建てた彼女たちの小屋に住まわせてもらうことができたのです。そこで子どもたちと土を練り、家作りを手伝いながら、日本でウーフホストをしていた頃とは逆の立場で暮らしました

この体験により、「バリで自分らしい暮らし方がきっとできるはずだ」、と思い至りました。気の合う仲間がすぐに見つからなくても、自分が最初の1人目になることで、似たような考えの人たちが集まってくるかもしれない、と、思うようになったのです。


2 


 多くのことを外注で済ませてしまう今の日本に違和感を持っています。暮らしのすべてをなるべく自分たちの手で、と、望んできました。それで、日本にいる頃から、子どもたちは学校ではなく家で学ばせる選択をしていました。

子どもとは自ら学ぶ力を持っており、それを育てる上でいちばん大切なのは、大人が手出しをしないことだと考えていました。集団保育や集団教育は最も「手出し」することになるのでは、と。

とりわけ日本の教育は、個性よりも、同列に並ぶことをよしとしています。また、我慢、辛抱といったものを美徳にして、ひとりひとりが思うように生きることを「自分勝手」と諌めるふしがあります。……原発事故後の危険性を理解していても、「自分だけが逃げるわけにはいかない」と言う人は非常に多いですよね。

私自身は多忙な共働きの家庭で育ったため、両親に押さえつけられるような機会がなかったのです。そのせいか、自分のやりたいことは反対に遭ってもやり通すというスタイルが身についている。今回のバリ島への避難についても、反対をしようとする人は周囲にひとりもいませんでした。

人はみな自分が思うように生きてよいのではないでしょうか。子どもに学校給食を食べさせたくないなら、お弁当を持参させてよいのです。そんな基本的な権利に対して許可をもらわなければならないと考えるところからすでにおかしいのではないでしょうか。

実際に、私たちが私の母と同居をしていたわずかな期間、祖母の気持ちを汲み取ってほんの一時、学校に通うことになった息子には自分の判断でお弁当を持たせていました。

学校側はそれを禁ずるようなことはしませんでした。ただ、担任の先生は「ひとりだけみんなと違って、Yくん大丈夫ですか?」、と、心配しました。Yは、わが家で「人はもともとみんな違う」という前提のもとに学んできている息子だったので、お弁当のおかずを喜ぶことはあっても、みんなとの違いを嫌がることは一度もありませんでした。




子どもを産んで育てるというのは、人間を産み育てること。これ以上の社会参加はないと私は考えてきました。

たとえば、子どもにつきっきりの時期はゴミ拾いの活動には参加できないけれども、ゴミを捨てない子、ゴミを拾う子に育てることができれば、それが素晴らしい社会参加になるはずだと。

「育児だけしていたら社会に取り残される」というお母さんたちの焦る声をよそに、「子どもを育てることこそが最大の社会参加よ!」と思ってやってきた私ですが、こういった考えはバリに来てからもまったく変わっていません。それどころか、仕事は二の次、三の次で家庭や子どもを優先するバリたちには却って安堵と親しみを覚えます。現代の日本でそれをやっていた私は、相当に浮いた存在であったろうと思います。

ひと月ほど、ごく普通のバリ人家庭で間借りをして暮らしていたことがあります。親族がひとつの敷地に集って暮らし、誰の子であっても自然に代わるがわる世話をしたり抱いたりする、コミュニティという言葉がぴったり似合う生活がそこにはありました。

日本では、お金をかけたりルールを設けたりしなければなかなか作り出されなかったコミュニティ…それらは残念なことに私が求めているものではありませんでした。ところがバリに来てみたら、そこらじゅうにまったく違和感が沸かない、本物と思える「コミュニティ」が普通に存在していたのですから、驚きでした。

日本の田舎で暮らしていた頃も、周りの家庭では0~1歳児から保育所に預けてしまい、子どもが近所で遊ぶ姿を見かけることがあまりありませんでした。子どもたちが自然のなかで遊ぶのは、管理された体験教室の中だけなのでしょうか。私は子どもたちの暮らしそのものを自然の中に置き、自然に暮らし、自然に学び、自然に遊んでほしいと思っていました。

幸いなことにうちの子供たちは今では、彼らなりに自然との付き合い方を身につけていると思います。言葉の壁も気にせず近所の子どもたちと遊び回っています。

最近ご縁があって週1回のインドネシア語教室に通い始めた彼らは、遊びの中で覚えた単語を駆使し、熟年同級生たちを唸らせたりもしているようです。

それでもやはり(言葉の問題も含めて)日本人のお子さんが周囲にいる環境を意識しながら住まいを探しています。これまでクロボカン→ニュクニン→ボナ→ニュクニンと行き津戻り津しながら、定住にふさわしい場所を探しています。家も土地も実際に住んでみなければわからないことが多いので、根気よく探してみようと思っています。

これは避難されて来ている皆さんにも共通するのではないかと思うのですが、ほんの数日で考えや気持ちが二転三転してしまったりするのです。原発事故というあまりに大きな出来事によって、これまでの生活基盤が覆されてしまったのですから、まったく新しい土地で、どのように生きていくかを簡単に定められないのは当然のことかもしれませんよね。



 

私たちは以前から食べ物にも気を遣ってきていましたが、今、野菜はUBUDの市場にあるオーガニック専門の店で買っています。UBUDには定期的に開かれるオーガニック・マーケットもありますが、やはり市場に比べると値段が高い。今購入している店の野菜は、慣行栽培のものとほとんど値段が変わらないんですよ。

お米や乾物はスーパーで。肉や魚はもともと3人とも食べないので、これだけで大体事が足りています。

先日、ビザを取るためにマレーシアへ行った際、食べるものが気になって調べているうちに、マレーシアがウクライナ産小麦の輸入量を増やしていることを知って青くなり、滞在中は小麦製品を食べるのをやめました。

インドネシアの小麦事情も気になって調べてみたのですが、インドネシアはもともと多い国産小麦のシェアをさらに増やす方向とのことで安心しました。それでもスーパーで売っているものは出所がわからないので、小さな商店で量り売りをしている100%ジャワ産小麦の粉を買っています。価格もたいへん安いのです。

私は「質がよいものはその分高い」という常識を受け入れることに抵抗があり、日本で経営していた自然食品店も畳んでしまったことがあります。よい物が安く買えるような社会にしていかなければと思うのです。高価なオーガニックショップの商品よりも、ローカルのお店にある良質なものを選んで使いたいと考えています。かといって、それほど厳格に選んでいるわけではないんですけどね。でも、こういった自分が大切にしていきたいことというのは、日本にいた頃も今もまったく変わっていませんね。


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少し前から、バリへの避難を希望する人や避難したばかりの人への情報提供を目的に、非公開
ブログを書いています。

私たちの生活体験を記すことによって、バリに来たいと思っている人には「こんなことができるんだ!」ということを知ってほしいし、苦労してやって来た人には、うまく生活が回るよう手助けをしてあげたいと思っているんです。

それと同時進行で計画しているのが、日本に残っている人たちへの食糧支援です。バリ産のオーガニック米をはじめ、安全な食物を日本へ送りたいんです。できれば将来的には自分たちで土地を借りて育てた作物を。今現在バリで作られているものは本来バリにいる人たちが食べるためのものだと思うので、それをお金で買い漁ってしまうのはどうだろうという気持ちがあります。

作物を作る側や送る側にも避難者が関わり、新たな仕事を作り出すことができれば、避難してきた人への支援にもなります。バリへ逃げて来た人たち、日本に残っている人たちの双方が接点を持つことでお互いを支え合うというこのプロジェクトを、ビンタンパリ(南十字星)と名づけて準備を進めているところです。


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いかがでしたか?

バリにはここ1,2か月のあいだに移住されてきている日本の方が増えている印象があります。

移住されてきている方は、皆さんそれぞれ。前から何度かバリへ来たことがある人もいれば、一度も来たことがなかった人もいます。個性のタイプも違えば、日本での暮らしのスタイルもそれぞれ。ここがすっかり気に入って「バリに決めてよかった」という方もいれば、一度来てみて帰られる方もいるとか。皆さんに共通することといえば、「とにかくやってみよう」という気持ちでしょうか。

この先真弓さんの活動は、多くの方のヒントになる気がしています。

2012年4月18日水曜日

藤川修さんの「放射能学習講座」から

2月にインタビューさせていただいた藤川修さんが4月2日、UBUDにあるsisiさんで講座を開かれました。

原発問題をテーマにすることについてインドネシアでは規制があるため、在住者に向けて現在の日本放射能汚染の状況と、気をつけたい点を中心に質疑応答が展開されました。

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まずは福島第一原子力発電所事故のおさらいです。

以下は皆さんもご存知の事が多いかと思いますので、お話しを簡単にまとめました。


●全世界には441基の原発があり、そのうち約8分の1が日本にあります。定期点検によりあと1基を残すのみでほぼ全てが停止していますが、電力は足りていますね?  原発がなくても日本の電気は足りるのです。
●新聞やTVが信用できないのはなぜですか?  構造上政府の上にメディアが、その上に原子力産業があるからです。 インターネットも殆どは信用できませんので、自分で勉強して判断して行くしかありません。
●福島には全部で11基ありますが、福一1~4号基はどれもボロボロ。1、2号基はウラン原料です。3号基はプルサーマルで、ウラン原料にプルトニウムを混ぜたMOX燃料を使っている。プルサーマルは日本で3基しかないのに、これが事故を起こした事はほんとうに残念でした。
●プルトニウムは本当に怖いものなのに、これが環境に出てしまった。
●4号基は使用済と使用されていない核燃料が保管されている。水を循環させる事で冷やしていないと放射性物質がどんどん出てしまう。これが事故を起こしたら日本のみならず世界にとても大きな事態が起きる。
●これまで漏れたのは1トン。一説ではこれまでに数万人の人が亡くなっている。4号基はその200倍の量が保管されているので、恐らく数千万~数億人に影響が出るでしょう。
●使用済みということで安心されている人もいますが、実際は30年間は崩壊熱を出し続けるのです。その他の原発も停止させても30年間は冷却し続けなければならないんです。


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バリで生活をしている方へのアドバイス


1   花粉について

バリにいても花粉が危険だというのはどうしてですか?
 ●春になって日本では花粉が飛んでいますが、花粉には放射性物質がつきやすい。
●福島で計測された花粉は25万ベクレル/kgという数値。世界基準は100ベクレル/kgです。どれだけ高いか分かりますか?  これが一粒でも肺に入ると8年以内に死亡する可能性が高い。
●観光客の多いバリでは、日本からこの花粉がどこかについて一緒に来ている可能性もあるので決して安心できないです。

2   食べ物について

食品の放射能数値は何の核種を調べているのですか?
●放射能核種にはいろいろなものがあり、それら全てを計測することは困難です。
●セシウムはわりと計測しやすいので、それでセシウムのことばかりが言われているんです。
●食品の線量を測るには分解して専用の機械に入れて1週間かかる。ガイガーカウンターでは通常ガンマ線しか測れません。プルトニウムなどのアルファ線は数ミリしか飛ばないため非常に難しい。
●ですから、日本のスーパーなどで数値を表示していてもあまり意味をなさないと思う。もし数値が出たとしたら、それは相当高いという事です。推測するに、スーパーなどは測りやすいものだけを測って表示しているだけではないでしょうか?
●九州で生活している場合、1日辺り平均30ベクレルの摂取。40才以上は10年以上は変化がなくても、毎日食べていれば必ず影響が出る。子供はその数千倍です。


バリ在住者はどんな注意をしたらよいですか?

●とにかく、もし国内に一時的に戻るのであれば九州産、北海道産を選ぶこと。海産物は避ける事。牛乳、肉、大きな魚は生体濃縮が3万倍などとも言われているので絶対に避けたほうがいいでしょう。
●バリにいても日本のダシを使うのはやめましょう。魚とシイタケは一番危ないので、野菜から出る出汁成分を塩で引き出すような代替えがおすすめです。
●北海道のコンブ、韓国産の海苔、中国産もやめた方がいいです。
●バリでは近海の小さな魚、湖で採れる魚は今のところ大丈夫だと思います。
●また、放射能が入ってしまっている食品は煮ても変わりません。洗えば表面ものは落ちますが中に吸収されているものは変わりません。

3  放射能汚染を防ぐには
放射能を防ぐ、または身体に溜めない方法はありますか?
●日本での生活がすでに長い、すでに汚染されていそうな食品を食べてしまっている、などの事は気にしない事です。精神的にネガティブになる事も健康には影響がありますから。
●それよりも、乳酸菌の摂取をおすすめします。米とぎ汁、大豆の煮汁に塩とヤシ砂糖を加えてつくる乳酸菌、味噌など乳酸菌を含む食品をたくさん摂ることです。身体の中にある毒素を少しでも排出できるように心がけてください。


4  頂き物の食品は
日本からの食品は食べても大丈夫ですか?
●バリにいると、知り合いが持って来てくれたお土産など、自分で買わなくても色々もらう事も多いですね?  しかし、日本からの頂き物は全て食べないことをおすすめします。とくに20才以下は十分気をつけていただきたいです。
●日本の人は子供の事を考えれば少なくとも九州へ、できるだけ海外へ移られること。
●なぜこんな事をいうのかと言うと、チェルノブイリの例があるからです。ベラルーシで汚染地域で生まれる赤ちゃんの99%は26年後の現在でも奇形で死産も多い。外見に異常がない場合でも内臓や脳に異常があるケースも多い。ロシアでは事故から8年で人口が激減しました。推定4000万人が死亡したと言われています。
●今、日本の福一で起きている事はチェルノブイリ以上です。チェルノブイリ以上の影響が出るでしょう。
●このようなことから、どんなに微量でも放射能というのは必ず影響出るし、ご自身でよく考えていただきたいんです。

当日はこの他にも色々な質問が出ました。


前回も書きましたが、放射能について詳しい人ほど「放射能は微量だから大丈夫という事は決してない」と断言しています。バリに来ているから全てが安全というわけではないのです。
それでも国内にいるのとバリにいるのとではどれだけ健康への負担が異なることか。藤川さんのお話しを聞く度に、考えさせられます。

<参考資料>

「オール電化 原発」というふたつのキーワードを入れて検索すると、「オール電化の選択は、原発賛成に一票」という福島事故の二年前に書かれた藤川修さんの文章をご覧頂けます。「たぶんトップに表示されます」とのこと。

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 4月15日。

同じくUBUDのsisiさんにて「新しく移住して来た方と前から住んでいる方との情報交換会」が開かれました。

「新しく来た方」は、来てまだ数日~10日という方々、同じ地域から複数の家族で一緒に来られた方もいました。会場には藤川さんほか、このブログに登場してくださった清水義憲さんも。清水さんは、「最近起きている地震や4号基の温度上昇、がれきの問題などは、今もしまだ日本にいたらもう一度移住を決心しただろう」と。

大飯原発再稼動が先送りになり、5月5日には北海道泊原発が定期点検のため停止になり、これで一旦日本の原発の全てが止まります。図らずもこどもの日。子供たちへ意味のあるこどもの日が迎えられますように。

今回お目にかかった新しい皆さんにも今後インタビューをお願いする予定です。
その前に次回はビンタンパリ(インドネシア語で南十字星)という運動を開始された松浦真弓さんにお話しを伺います。松浦さんは放射能避難でバリへ来た方への情報面での支援と、日本の方々へバリから食品を送る活動を計画中とのこと。

次回もどうぞお楽しみに!

2012年4月6日金曜日

海外移住専門サイト管理者から

秋津大和さんは2004年から海外移住に関するサイトを作成し、現在も、3作目に当たる「海外移住の国選び」というサイトを続けています。

現在は海外在住。

「国名は読者の皆様のご想像にお任せします(笑)」

会社員でありながら単独で資金もすべて個人で賄いながら育ててきたサイトは、福島第一原発の事故以来アクセス数が急増しているそうです。

「このサイトを立ち上げたのは、2004年のスマトラ沖などの大きな地震がきっかけです。専門家によって超巨大地震や原発震災という巨大災害の発生が指摘されている事を知りながら、何もしないで平然と生活するという未必の故意に準ずる。今後も地震の予知はあるんです。多くの人々が自然災害や原発事故によって苦しむ事が明白なのにもかかわらず、知らんぷりすることは少なくとも私にはできなかったのです」

「万一に備えて情報源となればと、このサイトをつくったのですが、最初はほとんどアクセスもブックマークもなくて......。」


秋津さんはこの8年、辛抱強く万一に備えるための情報提供を続けてきたのでした。


サイト管理者に聞く、バリの安全度

海外移住についての情報の蓄積からバリへの移住についてコメントをいただきました。

「まず、55歳以上の方はリタイアメントビザによる長期滞在が可能です。ただ、病気の際の医療などに不安要素がありますね。長期滞在されている中高年以上の年代の多くに、病気の深刻さ如何で帰国を余儀なくされるケースがありますから」

(注)一家での移住、若い世代の移住にはインドネシアでは就労ビザを取得するのが一般的と思われます。詳細はこちら→海外移住情報・インドネシア査証編http://www.interq.or.jp/tokyo/ystation/indonesia.html

「余談ですが、バリは喫煙率が高い。タバコには有害化学物質のほか放射性物資も含まれていることがわかっていますので健康面での配慮が必要だと思います」
【関連記事】 海外移住とラドンの世界地図
http://emigration-atlas.net/environment/radon.html


「バリでは生活面での便利さを求めてはいけないと思います(笑)。逆に言えば、便利を求めなければ、お金もそれほど必要ないかと。人にもよりますが、私はバリの滞在時には、日本人がほとんどいないような安宿に宿泊しています。停電はしょっちゅう。テレビもエアコンもPCも何も無い」

「物質的な豊かさを求める方にはバリはお得かどうかわかりません。でも、バリ人の人間性は素晴らしい。バリ島のウブドの人は初心(ウブ)で純粋。物乞い人でさえ、他人の物を盗る様な事はしない。経済的には豊かではないのかも知れないけれど、心が豊かだという印象がありました」

確かに、移民の多いビーチエリアを除けばひったくりのような被害例もあまり耳にしません。

バリに行くたびに経済的に豊かでも心が貧しい人に包囲されている事に気付く自分がいるのだ、と秋津さん。

「放射能汚染についていえば、過去に全世界で2000回を超える核実験が行われてしまった為、完全に汚染されていないところは残念ながら皆無でしょう。ただ、南半球にあるバリ島は、放射能汚染度が低い地域であると思います」



日本人街、経済特区を提案

海外に永住する為の2大条件は、ビザと雇用です」

「これをクリアする方法は二つあります。ひとつは海外で起業する。もうひとつは日本企業が海外に進出することです。これによってビザと仕事(経済面での保障)が安定し、安心して海外居住ができるようになります」

“海外移住”は原発事故以来、多くの人が少しでも考えたことがありそうな課題です。それが難しいのは、今の仕事が辞めにくい&移住先での仕事探しと保障なのだ、と秋津さん。

「そうなると、いろいろな場所に日本人街を少しずつ増やすことができたらいいのではないか、と。昔の日本人街を考えれば…」

「ただし、今までの個人主義的な個々の移住者には難しいかもしれませんね。皆考え方がそれぞれでまとまりにくい。理想は日本にある地域や会社などのコミュニティ単位での移住」

「ビザの取得が難しい理由の一つは、自国の雇用が外国人に奪われる事による失業率の上昇です。そこで、経済特区のようなところをつくり、経済特区域内でのみ就労を許可するなどの条件付きにすることで、相手国の雇用を奪わない特区のような地域をつくるのが有効だと考えています」

以下はサイトからの抜粋です。

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海外進出で経営者の災害回避と日本人の海外雇用の可能性

- より多くの皆様の海外移住を実現させるために個人ができること -

海外移住の実現のためには、ビザの取得と海外での就職先(収入)の確保が重要です。しかしながら、ビザの取得と就職先の確保は非常に困難を極めるのが現状です。また、永住権の取得に成功しても、失職すれば帰国を余儀なくされます。(永住権取得者も女性が現地男性と婚姻する場合を除き、10年前後で日本に帰国しているという現実があります。)

外国人による移民街がある場合は、就職口の層が厚く、失職しても、すぐに別の職を探すことが容易であるため、帰国しなくても済むケースが多いのですが、日本人の場合は日本人街が無いか、あっても規模が小さく、就職口の層が薄いため、失職により、帰国を余儀なくされるケースが多いというのが現状です。

就職先とビザの問題を解決する方法のひとつとして、企業の海外進出や海外で起業する皆様が増加することにより、日本人の海外での雇用が創出されることで、日本人の海外移住を妨げるネックであるビザの取得と海外での就職先(収入)の確保という困難な問題を解決できる可能性が高くなると同時に経営者の災害回避にも つながります。

日本人移住者が海外で増加することで、日本食レストランなどの外食産業をはじめ、日本人相手のサービスなど、あらゆる関連する仕事が生まれ、日本人の雇用に繋がることで、海外の日本人が増加し、雇用が雇用を生むという好循環が生まれます。
(世界各地には移住者による街がありますが、日本人の移住者が少なく、日本人街は極めて少ないのが現状です。)

サイトのコンセプト(サイトの変遷・サイト開設の経緯)
http://emigration-atlas.net/concept.html

日本人街・経済特区
http://emigration-atlas.net/livelihood/japan-town-special-economic-zone.html

海外移住の方法
http://emigration-atlas.net/livelihood/method.html


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秋津さんの提案は今後の日本人社会の形成への示唆があります。「海外での起業」または「企業の海外移転」は、日本にとどまらず、今後移住を選ぼうと思っている方への大きな貢献にもつながるということを是非覚えておきましょう。

また、現在インドで計画が進んでいる「日本人特区」のようなアイディアを含め、まとまって日本人が居住できるエリアの開発は移住志願の日本人だけではなく現地の経済活性化にもつながると考えられています。「日本人街」のような比較的まとまったコミュニティの発展も今後の大切な課題だと思われます。

「チャイナタウンを例に取れば、何万人かいればコミュニティになり、雇用が雇用を呼ぶ。今の日本人は海外へ出てもコミュニティにならないので仕事がみつからなくなると自国へ帰ってしまう。先ほども言いましたが、ひとりひとりが行くのは個性が強い場合が多いのでコミュニティにはなりにくいです。でも、今回は原発事故をきっかけにというまとまりがある。今までの個人的な移住とは違うので期待が持てる。うまくいくかもしれない


いかがでしたか?

皆さんも是非、このサイトを参考にされてください。

「海外移住の国選び(海外移住の地図帳)」
http://emigration-atlas.net/

2012年3月23日金曜日

二重生活の拠点をバリへ

現在一時帰国していて、今回の「バリ日記」は日本の方にインタビューをさせていただきました。
3月15日、埼玉県川口市在住の菅野沙織さんにお目にかかりました。
沙織さんは現在、日本とバリとの二重生活を計画中です。
昨年3月19日から1週間、パッケージ旅行で家族とはじめてのバリへ。
予約をしたのは3月16日頃。出発までは2、3日の急なスケジュールでした。


1 たまたまの予定が偶然の道筋に

もともと3月に家族でどこか海外へという予定でした。
震災が起きたことから両親は行くことができず、会社員のご主人は忙しい最中にも有給休暇を取ることが予定されていた事から同行ができ、4歳の女の子と1歳の男の子との4人での旅になりました。
ご両親は福島県二本松お住まいで、福島第一原発からは55キロほどしか離れておらず成田までの移動が不可能だったことから断念されてしまったのです。
「二本松は幸い津波の影響はなかったんです。でも、ガソリンが買えず、道路も封鎖されていました。当時は分からなかったけれど、放射線風向きマップで赤い部分(線量が最も高い地域)に入っていた区域でもありました」
沙織さんは、事故当時は放射線の影響についてはあまり大きく気にしていたわけではなかったようです。テレビ報道で放射能汚染については「人体にただちに影響はない」と言われていた頃でしたから、それが一般的だったと思われます。

 

沙織さんは自営でオーガニックハーブを原料とする自然派化粧品の開発と商品化をしています。化粧品のブランドを立ち上げたい個人やメーカーのサポートを全面的にお手伝いする仕事で、原料を厳選して化粧品そのものをつくることから、パッケージ、WEBサイトを立ち上げることまでのコンサルを一括して請け負う仕事。現在はお医者さんがつくろうとしているプロダクトに携わっていおり、これまでもナチュラルハウスのオリジナル化粧品など、自然派のなかでも一般に知られている有数のブランディングを手掛けています。

 
3月にバリというディスティネーションを選んだのは、 化粧品の原料を開拓するに当たっての期待をしていたから。

 

これまでもアーユルヴェーダのあるインドや、粘土、オリーブを原料とするトラディショナルなスキンケアがあるモロッコなどに出かけたことがありました。次の旅行は家族で行くという予定だったので 、事故のある前から何となく下調べはしていたのです。バリは、放射能汚染からの避難というよりも仕事のきっかけづくりを考えての選択だったようです。

 
「1週間足らずの旅ではほとんど仕事にはならなかったのですが、バリでソープナッツと呼ばれている興味深い原料のことを知ったり、それなりに情報を得ることはできました。あっという間ではありましたが、今となってはあの時に訪れた事がきっかけでバリとの二重生活を目指すようになったかも」

 
ソープナッツというのは、天然の木の実ながらそれをそのまま洗濯に使えるというもの。バリではエコロジカルな生活を好む外国人の間で知られた存在です。

 
「昨年3月に国外へ出たのはある意味偶然だったわけですが、ずっと後から思い出したのですが、 その少し前からなぜか3月には国外へ出たいという気がすごくしていて。それは仕事のリサーチということより、その頃に日本にいない自分のイメージみたいなものがあったからでした」

 
「結果的に子供たちをその時期に国外へ連れ出すことができた。偶然ではあったけれど、今となっては不思議な偶然だったんです」

 
何か、導かれたような、ということだったのでしょうか。

 
ともかく幸運な選択でした。


 
2  子供の変化に気づいた2度目の旅
再びバリへ向かったのは、昨年7月。
この時はご主人は同行されず、友人母子と。2ヶ月くらい行きたかったけれど、諸事情から1ヶ月に切り詰めての滞在に。

知り合いから聞いたクロボカンにある日本人経営のゲストハウスに滞在。マクロビオティックの専門家でもあるオーナーから時々料理をしてもらったり、1ヶ月の宿泊費は7万円ほどと決して安くはなかったけれど参考になることがたくさんあったそう。

お子さんたちは1週間ほどの間UBUDエリアに出来たばかりの「スターシード」という保育施設に通いましたが、オーストラリア人が経営するシュタイナー教育取り入れた伸び伸びとした保育にとても好感が持てたようです。
「とても良くしていただいて、言語は英語だけでしたけれど貴重な経験になりました。他にも、デンパサール近郊にあるイスラム系小学校を見学しました。こちらは日本語を話せる先生がいて教科に日本語があるとのことでちょっと心強い気がしました」

バリとの二重生活ができたらと思いはじめたのは、仕事の面だけではありませんでした。

3月頃から何となく下のお子さんが下痢気味だったのが、この7月の旅でバリについた途端ピタッと止まってとてもよく食べるように。

 
「バリの水をそのまま舐めたり、土いじりをしたり。来てからもっと下痢になるんじゃないかと思ったのですが、日本では何となく調子が優れなかった子供がすっかり食欲旺盛で元気一杯になる姿を見て、これは、と思いました。目に見えない放射能。野呂美加さんも言っていましたが、30日間くらいでも子供達にとっては保養をさせる事がいかに大切なのかに気づかされました。あんなにあからさまに変わるとは、さすがに驚かされました」
放射能の影響は、本当にただちに健康に影響はないといえるのかどうか。

 
母子たちが1ヶ月滞在した7月、 沙織さんと友人は全身に及ぶようなじんましんに。子供たちも現地の人は比較的刺されずにいる蚊にかなり刺されていて不安も感じたそうです。でも、じんましんのような中から出てくる皮膚症状はバリへ来たばかりの人には時々起きること。日本で気づかないうちに溜まっていたものが解毒作用のように外側へ出てくるものではないかとも考えられます。蚊に刺されやすいことは、バリの風土に慣れてくると比較的落ち着くような印象も。私も住み始めた頃は蚊取り線香を焚きまくりましたが、今は時々思い出したように刺されるけれどローカルの精油を塗ればあっという間に痒みは引きます。 体質が変化してくるまでの一時の辛抱ではないかと思っています。

 
「今後の事を考えると、主人の仕事から一家揃っての移住までは叶わないけれど、母子だけでの二重生活という手段ならできるのではないかと。今年6月頃にまたバリへ行く予定にしているのですが、こうした短期的な行き来の中で1年以内には子供達の学校についても二重生活に相応しい選択肢を決めて行きたいです」

 
「でも、バリは物価も安くないですね。保育所は1ヶ月で3万円くらいと日本並みだし、ある程度経済力のある人じゃないと難しい気もします。それほどお金かけてまで保養しに行きたいかどうかと問えば、殆ど人が実現できないかも、と」

 
沙織さんが今理想としているのは、一時的に短期間でバリで保養したい母子に、比較的安価で滞在できるような情報源が提供されること。

 
一度もバリへ来た事がない人にとっては一時的に使える住居の状況や相場、一体どんな保育施設があってどの程度の費用なのか、お米はどこで買うのがいいか、などなどの生活情報がネット上で配信され、実際にバリで手助けをする人たちがいること。
バリで宿泊施設を経営する日本人が、放射能汚染からの一時的な非難母子をこの先何年も継続して考え配慮に取り組んでくれないかどうか。 これは、外国旅行にあまり馴染みのない人にとってはかなり心強いサポートになるはず。バリに在住する「何か力になりたい」と思っている我々日本人に工夫が求められる課題かと思います。 実際に一家で移住までは遠い道のりと感じている多くの人にも、短期的な保養ならかなり現実味がある方法になるとすれば、もっと多くの人たちに身近な“バリへの避難”になりそうです。

3 放射能以外のストレス気づいて

 
沙織さんは、1回目のバリ滞在にあとに実は和歌山県へ一時的に滞在したと言います。国外への避難は大変だから、国内という方法はどうなのかと実践してみたのです。
「そこで気づいたのは、放射能からの避難ということだけが問題じゃないということでした。放射能は目に見えないし、実際に病気になるかどうか今の時点では分からない。でも、それ以上にストレスになっている事があると気づきました。それは、無関心というか、皆が起きた事故について蓋をしているような空気感。国内での避難はそのストレスからは開放されないんです。海外へ行かなきゃダメなんだと」
実際、幼稚園での給食をためらってお弁当持参希望するような人は100人に一人いるかどうか、という印象だとか。
「私は前から日本にある特有の空気感について違和感を持っていたからかもしれません。これは子供達への放射能汚染問題とは別に自分の中ではっきり認識したこと。今はバリへの往復がいいのだろうと思い至りました」

 
震災から1年。

 
これまでかなり気をつけてきた人も、時間が経つにつれ次第に緊張感が薄れつつあります。 周りの空気感から判断して「もう大丈夫」と思うかどうか。

これは人それぞれなってくる思いますが、事実上何かが収束したという事は少なくともまだありません。空気感に流されないためにも、国外という選択は意味があるのではないでしょうか。

7月に滞在したゲストハウス
http://m.facebook.com/pages/Desa-Biasa/126016100801787?id=126016100801787&refsrc=http%3A%2F%2Fwww.google.co.jp%2Fsearch&_rdr
上記のFacebookページに住所があります。
Desa Biasaというゲストハウスで夫人が日本人で日本で20年間マクロビオティックの
レストランをされていた方です。
料金は1泊だと5000円(朝食つき)、一ヶ月だと7万円(自炊)です。


●1週間だけお子さんが通われたスターシードという保育施設の
所在地、1週間の料金、連絡先
UBUDにある保育施設
上記ページの中ほどにスタートシードの情報があります。
正規に通うと週3〜5日で1ヶ月3万〜5万です。